考えすぎ

 昨日の誕生日は、昨年と同じように、かの国の女性達に祝ってもらった。去年僕の誕生日を知られてしまったから、恒例行事になりそうだ。彼女たちはよくパーティーと言う言葉を使う。何かにつけて行うので慣れている。沢山の料理と簡単な仕掛けを用意してくれる。昨夜も僕が寮に着くと電気が消されて真っ暗だった。いつもなら外まで賑やかな話し声が聞こえるのだが、昨夜は暗闇の中で息を潜めているのがわかった。いつものように勝手に玄関の扉を開けて入っていくと、風船が割られる大きな音とともに、25人が2列になって僕を迎え入れてくれた。  この歳でと言うより、若いときから誕生日などどうでもよかった。祝ってもらった記憶は小学生の頃から途絶えていて、以来どうでもいいもので通している。それがこの歳になって祝われるとなんだか照れくさい。ありがたいが嬉しくもない。ただ、僕を魚に彼女達が喜ぶ姿はとても嬉しい。  今年は前もって誕生日が分かっていたので、4つプレゼントをもらった。全員で買ってくれたものと、3組の個人やペアで買ってくれたものだ。どれも化粧箱に入れられ、開けるのが楽しみだった。ところが偶然かどうか分からないが、全てTシャツだった。1つは僕の好きな襟のないタイプだったが、残りの3つは襟付きだった。つい最近、Tシャツの襟なしが見当たらないから買いに行こうかなと思っていた矢先だった。襟付きは嫌いだから着ることもなく、古くて新しいのが数着ある。襟付きといえど、綺麗なものばかりだから、襟なしを買うのももったいない。そこで苦手意識を持たないようにと最近着ることに挑戦していたところだ。  Tシャツのプレゼントは、僕にはかなりありがたい。靴は去年息子が買ってくれるまで何年はいたか分からないようなもので、破れて雨降りの日には、1分も歩けば靴の中が水浸しになるくらいだった。靴が破れているのを見て息子が買ってくれたのだが、今度の「全てTシャツ」も伏線がある。恐らく、彼女達は僕にはTシャツの洗い替えがないと気がついていたのではないか。だいたい1週間は同じものを着ていたし、ソファーに並んで腰掛けると、汗の臭いと白衣に染み付いた煎じ薬の臭いでいたたまれなかったのではないか。  これで恐らく僕のTシャツは一生分手に入った。もう買う必要もないだろう。どれも高そうで強そうだったからすぐに着れなくなると言うことはないと思う。服より僕の寿命のほうが短そうだ。同じものを4着もくれたのは、この服が着れなくなる位長生きしてというエールだったのだろうか。それはあまりにも、考えすぎかな!