フリル

 僕が着ているTシャツの襟のあたりがもうずいぶんとくたびれてよれよれになって波打っている。長く着たからなのか、元々安物でこうなるのか分からないが、恐らくどちらもあたっているのだろう。ある男性がそれに気がついて「もうそろそろ奥さんに買ってもらったら」と助言してくれたが、胸が破れて素肌が覗きはじめればさすがに僕にとっても買い時かもしれないが、この程度で捨てるのは忍びない。 どうも僕と他者とはものの寿命に関してかなりの認識の違いがあるらしい。僕にとってはまだまだ十分着れるものでも、人から見れば寿命に近いものに写るのだろう。車でもそうだが、僕は乗れる間は乗る。パソコンにしても他のものにしても、諦めがつくまで壊れきってから新しいものにする。使えるものを買い換えるって発想はない。  恐らくその根底には、僕にとって「余所行き」がないことによると思う。皆無だとは言わないが、その概念がかなり少ないのではないかと思う。この年齢で余所行きもないかもしれないが、この年齢に達する遙か以前から余所行きを排除してきた。服装どころか、持ち物、履き物、いやいやそんな次元ではなく、言葉、行い、考え方などすべてにおいて「いつも通り」を心がけてきた。何か信念があってそうしたのではない。ただひたすら自由でいたかっただけだ。自分が作り出す虚像から自由でいたかっただけだ。  その男性には「このTシャツの襟にはフリルが付いているんだ」と答えたが、ここまで話さなければ誰にも真意は伝わらないだろう。ただそれを誰にも伝える必要はない。こだわりなんて極めて個人的な問題だから、自分自身の中で密かに完成させればいい。こだわりの中でしか自由を表現できないなんて不自由そのものだが、檻の中からだって空は見える。