失格

 どう言った経緯があって、この男性が一人で老いた母親を看ているのか知らないが、立派と言うしかない。僕が褒めると「手を挙げたこともあるんよ」と正直に教えてくれた。その一言で親近感がぐっと増した。それまでは到底真似は出来ないと恥じ入るばかりだったが、誰にもそうした負の体験もあるんだと安心した。 幸い僕は直接世話をしていないから、手を挙げるような必要はなかったが、人格が破壊していくスピードに付いていけずに大声を上げたことは何回かある。その声に怯えたような仕草をしたときは悪いことをしたと反省しきりだが、何の反応もない時の方が寧ろ辛かった。もう何も感じることが出来ないのかと。  姥捨てをしてから1ヶ月になった。母を目にしない分、生活は安定感を増したが、ふとしたときに思い出され自責の念にかられる。会いに行かなければならないが、もし思考力がまだ残っているなら見捨てた僕を恨んでいるだろうから、それこそ会わす顔がない。願わくば完全に思考停止して僕を認識できないで欲しいと願ったりする。そうすれば僕も施設に会いに行ける。こうした身勝手な自分の考えにぞっとすることもある。  昨日は兄が、今日は娘が、もう会いに行ってもいいのかと尋ねてくれた。僕の後ろめたさを少しでも埋めてくれたらと思い、是非訪ねてとお願いした。人生のどの部分が幸せなのが一番なのかと考えても答えは見つからない。かなり長い間僕は母を幸せにしたと思うが、最後の最後で裏切ってしまった。せめて最期だけでもと言う表現を好む日本人の道徳観念からしたら、僕は明らかに失格だ。フライングという名の失格だ