写真

 姉が横浜から持参した幼い頃のアルバムを、母を中心に、義兄と姉が両サイドに、後ろ側に僕ら夫婦とかの国の若い女性二人が陣取って1頁ずつゆっくりとながめた。時に母は自分でページを捲り、姉の解説に頷いたり口を挟んだりした。最近ではあり得ない光景に僕は驚いて、正面に席を移し母の表情を見てみた。すると母の目は輝き、まるで子供のように写真に興味を示していた。嘗ての母の姿に戻っていたように思えた。  恐らくその延長だろう。夕食の時間が来て僕達が帰らなければならないことを知ると、車いすから何度も立ち上がろうとした。明らかにあれは一緒に帰る意思表示だ。姉夫婦が迎えに来たと思ったに違いない。  そもそも姉が会いに来てくれるよと母に教えたときに「まあ、嬉しい」と即座に反応した時点で今日の母はいつもと違っていた。姉や義兄に見せる笑顔、いやいやそれどころか往年の気遣いさえも復活していた。全て喜ぶべきことだが、当然何度も姉たちに今日の母は違うとお礼の意味も込めて繰り返したが、母の思考がしっかりしている分、別れのタイミングが難しいだろうなと思った。案の定母は帰れるものと思っていた。  施設の人にいわば強引に車いすを押されて入居者の群れの中に入っていたが、その心中はどうなのだろう。姥捨てを恨むのか、あるいは諦めてくれているのか。いつものにらむような目つきでなかった分、心が痛んだ。この為に生まれてきたのではないだろう。懸命に働き、贅沢もせず、ひたすら子供のために生きてきて、これなのか。