珍しい経験だ。2日連続で虹を見た。 昨日は玉野の深山公園に母を花見に連れだし、その帰り道。施設にほとんど着いた頃、前方に虹の一部が雲間から覗いているのを僕が見つけた。折角の花見に母を連れだしたのに、小雨が降ったり止んだりで、風も強く始終天気ばかり気にしていたから、雲間から差した光の中に虹を見つけたときは思わず声を出してしまった。その声につられて姉夫婦とかの国の女性達も歓声を上げた。たかが虹で、それもかけらのような虹であんなに大の大人達が喜ぶのかと、今になってみればおかしくもある。ただ、恐らくそれは何かに託さなければならないほど、日々の生活の中に本当の希望がないからだと思う。だから虹ごときであんなに喜ぶのだ。母と過ごした2時間くらいの間、老いに対する無力感を味わった後だけに、余計に感傷的になっていたのかもしれない。  今日は3時頃だったと思う。配達のために出ていこうとした妻が空を見上げて虹が出ていると、外から手招きをした。それこそ虹ごときでわざわざ出ていく僕にも、希望に満ちあふれた明日がないのだ。東の放射能、西のpm2.5。好戦的な政治屋ども、保身を旨とする官僚ども。守銭奴と化し品格を捨て去った経営者ども、太鼓持ちに成り下がったマスゴミ。上げれば限りなく劣化した組織が並ぶ。包囲された庶民は脱出の虹の橋を探しあぐねている。だからかけらのような虹を見つけても歓声を上げるのだ。