真似事

 紅葉を楽しむ感性を持ち合わせていないから、僕にとって秋は一足早い冬でしかなかった。そんな僕を少しばかり変えてくれたのはかの国の若い女性達だ。いつ何処で覚えるのか知らないが、紅葉と桜は彼女達の見たいものなのだ。桜を楽しむと言う経験もなかった僕だから、随分と逆感化されたものだ。  今日の深山公園は残念ながらまだ紅葉の走りくらいだったが、それでも初めて訪れた2人には自然の中での時間は心と体の休息にはうってつけだったみたいで十分堪能していた。特に大きな池にいる沢山の水鳥(カモ、アヒル 白鳥)は圧巻だったらしくて、「おいしそう」を連発していた。ただ今日の深山公園行きは僕の発案ではない。1ヶ月前に、牛窓で看護師として働いている2人と玉野教会の姉妹は、同じ和太鼓のコンサートに連れて行ったのがきっかけで仲良くなって、姉妹が2人を招待したのだ。かの国の手作り料理持参でどうなるかと思ったが、辛うじて食べられるものがあって、場の雰囲気を壊さずにすんだ。もっとも僕がかの国の料理を受け付けないのは皆知っているが。  それにしても自分で何をしているのだろうと思う。僕は自分が楽しむ?必要はない。和太鼓や第九を鑑賞するのは譲れないが、芝生にシートを敷き、そこで弁当を食べるようなことまでしなくていい。正直本来はかなり苦手なことだ。連れて行ってあげるまでが僕の本来の距離感だと思う。京都にしても広島にしても姫路、高松、丸亀、福山、もう年中行事になっているが、僕は案内人でいいのだ。いや案内人がいいのだ。  天性の明るさで僕や妻を楽しませてくれた挙句「オトウサンのオカアサン アイタイ」と言って母の施設にまで4人が付いてきた。そして何故か分からないがいつもと同じ光景が展開されるのだ。メンバーは全く違うのに。  母をホールの中で見つけた僕が母の車椅子に手を掛けると、4人はすかさず駆け寄り、すぐに話しかける。機関銃のように話しかけると母はとても喜んで、意味は不明だがまるで会話しているように見えた。そして母を施設の外に連れ出し、4人がそれぞれに母の手や肩に触れながら小一時間過ごした。施設の人も、「お孫さんが一杯きてくれて嬉しいね」と母に声を掛けてくれる。そう言えば、こんなに頻繁に沢山の人間が面会に来てくれる入所者はいないだろう。息子が訪ねても能がないが、この愛情深い孫達なら母も笑顔が頻繁にこぼれるし、時に言葉も的を射る。  ひたすら子供のためだけに生きてきたような大正の生まれの母に、何もお返しをしてあげてはいないが、最期の最期に、あの子達の天性の愛を借りて恩返しの真似事が出来ている。