悲鳴

 大和路快速で大阪の中心部が近づくと、まるで襲いかかるように建っているビル群が迎えてくれる。観光で疲れたかの国の女性達は疲れて居眠りをしているが、僕にはある想いが頭を過ぎった。それは人間は、と言うより人類は長生きをし過ぎていると言う考えだ。長生きをし過ぎた人達の欲望の果てが、この無機質な大都市を造っていると思ったのだ。もし昔のように人間がそこそこの年齢で命を終え、次世代にバトンを渡していたら、こんなとてつもない巨大な器は必要ない。嘗ての死に病まで治したりコントロールすることが出来るようになったために、人間という在庫が無限にたまりだした。それらに食わしたり、着せたり、住まわせたりするために、こんな巨大な倉庫が必要なのだ・・・と考えたりした。  僅か何百年前には着物姿でちょんまげをした人達が、低い軒が連なった町中をのんびりと歩いていたに違いない。朝から晩まで働く必要もなかったのではないか。今では取るに足らない粗末なものを喜び、そこそこの暮らしをしていたのではないか。果てのない欲望も、果てのない陰湿さも、現代のようにどこでもいつでも、誰にでも関わってくるようなことはなかったのではないか。  ホームも、電車の中も人で溢れかえる。この頭数を養うためにどれだけ人があくせく働かなければならないのか。どれだけの動物を殺し、どれだけの命を頂いて生きなければならないのか。いつまでも去らない人達のせいで街が悲鳴を上げているように僕には見えた。