権利

 「夕方に迎えに来るから、待っていてね」なんて嘘をしゃあしゃあと言えるのだろう。自分で自分がいやになるが、いやになるところがまだ救いなのかもしれない。  差し入れたプリンを美味しそうに食べながら僕にも勧める。本来の母と何ら変わっていない。ただ変わったのは、僕が添付のスプーンをプリンに立てたまま渡したら、それをストローと間違ったのか、吸っていたことだけだ。それはスプーンだと説明したらすぐに手にとって美味しそうにプリンを食べ始めた。  僕が施設に入ったとき、母は車いすに乗せられ頭をテーブルにつけたまま眠っていた。6人テーブルに母一人だった。いつからその格好でいつまでその格好でいるのか分からないが、時間は残酷に停止したままだ。コミュニケーションの唯一の手段としてお菓子程度しか思いつかないので、毎回些細なお菓子を持っていくが、喜んで食べてくれる。他の入所者の立ち居振る舞いに目をやりながら、最大公約数を懸命に探すが答えは毎回見つからない。  いくつも言葉を交わしたわけではないのに、僕は席を立つ。いつものように「又来るからね」とありきたりの言葉でその場を離れようとすると母が珍しく「私は、帰りたいわ」と言った。なんてことだ、母の人格を痴呆という都合のよい言葉の中に全て詰め込んで、無視しているのだ。優しく遠慮がちに「帰りたい」と訴える母をまるで幼子のようにあしらう自分が情けない。  直接の原因はアリセプトによる攻撃性という副作用だったのに、それが治っても入所以外の選択肢を探さなかったのか。僕にとって都合のよい慰めの言葉を拠り所に母を追いつめたのではないか。的がはずれた会話も、悪臭も、人格を否定するにたりる要因なのか。「帰りたい」を拒む権利が息子だからと言うだけであるのだろうか。姥捨てをする権利が息子だからと言うだけであるのだろうか。今日僕は、母が全てを承知で「施設に入ってくれている」ように感じた。