遺言状

 いつ書いたのか分からないが、少し汚れた封筒の表書きに「遺言状」と書かれているものを妻が今日見せてくれた。母の家を片づけたときに見つけていたのだろうが、僕は今日初めて見せられた。内容は土地の相続と葬儀の段取り、お墓のことだけで凄く実務的なものだった。余分なものがないから感情をかき乱されることはなかったが、しかし昨日の「帰りたい」と言う訴えと重なって悲しみが襲ってくる。  誰にだって等しくやってくるものだから、殊更騒ぎ立て嘆き悲しむものではないのだが、ましてそれが単なる庶民だったりしたら、すこぶる限られた範囲の出来事でしかないから、数日もたてば何事もなかったかのように日常は回り出すのだが、懸命に生きた後の旅立ちの覚悟は痛ましい。  回りの星の存在を許さないかのように今夜の月は明るい。冷気が余計明るさを際だたせる。夜空を見上げることすら出来ないコンクリートの部屋の中で、長い夜をどうして耐えているのだろう。月明かりにでも消されてしまいそうな人生が、便箋1枚残して消えていく。