違和感

 その女性は終始表情が硬く、ついぞ笑顔を見せなかった。僕にはある意味屈辱のように見えた。 正直僕にはもう自信がない。その場で行われる多くのことが違和感を持ってしか見られないのだ。自分がひねくれ者なのではないかと思ったりするが、その場以外では全く何の障壁なく物事を受け入れられているのだから、まんざら僕が悪いようにも思えない。   あの国を台風が襲い、多くの人命と家屋を奪ったのはつい最近のことだ。教会にはまさに当事者がいて、実家を流されたらしい。そこでみんなに声をかけてカンパを募ったのだが、目標の10万円が1週間で集まった。ここまでの話なら教会に相応しい心温まる展開なのだが、最終段階でかなりの違和感を感じた。  ミサが終了したとき、寄付金をその国の女性に渡すセレモニーが行われたのだ。その女性は突然のことで理解できなかったみたいだ。促されてみんなの前に立ち、表彰状宜しく神父さんから渡された。そこで参列者の拍手が起こり、マイクを渡され感謝の言葉を述べる。最初言葉が出なかったが、それは感動の余りでは絶対無い。僕には分かる。大いなる戸惑いだったのだ。だから表情は硬いままで、出た言葉は「半分は村の人達に分ける」と言うものだった。僕はとっさの判断でそう言う言葉を出したその女性を尊敬するが、その言葉を出すときの表情は自尊心がにじみ出ていたように見えた。  実はその数分前に、僕はたった二人のその国の人のためにギター伴奏をした。たった二人の、それも全くの素人がアカペラで荘厳な式を盛り上げられるはずがない。恐らく惨めなものだろう。僕の拙いギターでもあれば迫力だけでも違う。だから歌い手にとってはとても楽だ。伴奏を終えてギターを片づけているときにその女性が小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。僕は何気なくかけてくれたその言葉がずっと耳に残っていた。そんな彼女が、列席者の前でお金を貰い、礼を言わなければならない。とってつけたような、いや貰う人より、あげる側を際だたせてしまう企画にとても違和感を覚えた。  誰がこの様な発想をするのか。日本人なら相手の立場を思いやり、ましてそれがハンディーを持つなら余計に思いやり、自らは謙虚に目立たないように行動すると思うのだが、その日も又、違った。教会では、何を言っても僕の考えは通らないから、残念な気持ちでその落ちを見ていた。  その時の僕の感じ方がまんざら間違っていなかったのではないかとその後確信した。コーヒーを飲んでいるときに、その女性が、かの国の女性に名刺を渡していた。それによると彼女のご主人は、かなり大きな会社の役員だった。寧ろ教会に来ているどの人よりも地位があり、その分経済的にも恵まれているだろう。その女性がみんなの目の前でお金を貰うという行為を本当に「有り難い」こととして受け入れたとしても、如何にも弱者のように、又こちら側が如何にも恵まれている人達のように見えてしまうのはどうだろう。本当に困窮した人でももちろんのことだが、衆目に晒される屈辱をほんの一瞬でもこちら側が頭によぎらせただろうかと疑ってしまう。人の目に付かないところでそっと手渡すくらいの配慮があっていいのではないかと僕は思った。  考えすぎだという反論もあるかもしれないが、考えて考えて手を尽くす職業を30年もやってきたら、そして毎日10人くらいの悲鳴をメールで読ませてもらえば、反射的に上記のような判断をするようになる。何気なく「ありがとう」と小声で言える女性に相応しいのは、もったいぶった式ではなく何気なく「どういたしまして」と言える小さな声ではないだろうか。さもないと善良で謙遜な信者の何気ない優しさが色あせてしまう。