放送

 都会の人が偶然その放送を聞いたら、戦争でも起こるのかと思ってしまうだろう。三陸の大津波で少しは知名度が上がったかもしれないが、田舎には放送施設があるところが多い。特に海岸沿いの町には必需品かもしれない。と言ってもいつもそんな物騒なことに使われるのではなく、日常の伝達手段として普及している。  朝早く放送されるほとんどは訃報だ。今朝もそうした知らせがあった。昨年からそれを担当している地区の一番の世話役は僕より一歳年下なのだが、なかなかヒューマニティ溢れる放送をする。嘗て何代の世話役が放送を担当したか分からないが、彼ほど私情をにじませる人はいなかった。寧ろ徹底した事務的な語り口こそ良しとされる土壌の中で、彼の個性は光っている。勿論かなり抑制はしているがそれでも感情が漏れ出る。悲しいときには哀しさが、嬉しいときには喜びが、選んだ言葉からこぼれ出る。恐らく意図的に放送形態を変えたのだろうが、その効果は十分出ている。言葉の向こうにある感情が静かに伝わってくるのだ。オーバーなものは頂けないが、抑制された語りの中に十分気持ちが込められている。そしてそれだからこそ朝早くから、穏やかな気持ちで訃報にも接することが出来る。 決して変革を買って出るような人ではないが、きらりと光る知性に感心しながら放送を聞いている。