記憶

 母は夕方の4時半頃に、施設の車に送ってもらい帰ってくる。県道から隣の駐車場を通って我が家の裏に回り路地で降ろしてくれるのだが、決まって娘と娘婿が迎えに出てくれる。調剤室から送迎車が見えるから、そして恐らくいつも気にかけてくれているから、患者さんの応対中以外そのタイミングを見過ごさない。勿論母に「お帰り」を言うが、施設の人にも丁寧にお礼を言う。  孫は、ワンクッションあるからか、見ていて微笑ましくなる。ところが僕はと言えば、嘗ての自慢すべき母親が、その自慢していたところを日々そぎ落としていく光景を目の当たりにして、途方に暮れるばかりだ。職業的に理解出来るはずなのだが、職業よりも息子という立場が優先して出てしまう。直接の世話は妻が天性の距離感でうまくやってくれているから、僕に何の負担もないのだが、日々の衰えを目撃さされて、最終的な母親の想い出が、悲惨なものになってしまいそうだ。優しくて、美しくて、知的で・・・その片鱗を今見つけることは困難で、人格を少しずつ失いつつある哀れな老人が強烈に記憶にインプットされつつある。  突然の訃報で静かに眠る姿と対面し、黒縁の中の微笑んでいる姿のままの心温まる光景を思い出せるのは幸せだ。しかしもう僕にはその権利はない。見てしまったのだ。ただ勿論いいこともあって、ひたすら長生きがいいことはないと言うことを知った。何の根拠もなくただ長生きがいいなどと無邪気に信じていた昨日の僕はもういない。福山雅治だって綾瀬はるかだって、やがてあのように自分を喪失しながら終焉を迎えるのだと思うと、執着などと言うものが空しく思えてくる。所詮田舎の薬剤師、せいぜい100歳くらいで手を打とう。