置かれた場所

ある女性がシスター渡辺和子が幻冬舎から出した「置かれた場所で咲きなさい」と言う本を持ってきてくれた。薬局に置いて、漢方薬が出来るのを待つ間に読んでもらうといいというのだ。彼女はクリスチャンではない。ただ数年前に、心が参ってしまって生きていることがとても辛い時期に僕の所を訪ねて来てくれて、何故か僕の漢方薬と僕のいい加減さがとてもマッチして、当時とは真逆の人生を現在は送ってくれている人なのだ。笑顔など決してみることは出来ずにいつも怯えていたが、今では微笑みをたやさずに、僕の幸せそうだねと言う問いに「充実していますから」なんて何の気負いもなく答えることが出来る。本当に充実しているのだ。僕の知り合いが経営している介護センターでヘルパーとして働いているが、患者さんにとても人気がある。人生のほとんどをどん底の環境と精神で暮らしてきたから「何でも耐えられる」そうで、その気持ちを患者さん達が素直に受け止めてくれているのだと思う。漏れてくる評判がすこぶるいいのだ。「あなたの人生に無駄なことなど何もない」「苦労した分あなたは沢山の人を助けることが出来る」僕がよく口にすることをまさに実践している人なのだ。 彼女の世話をしている頃、僕は欠かさず教会に通っていた。彼女を助けてとは祈らなかったが、彼女を助けられる力をくださいとはしばしば祈った。僕は教会に実力以上のものを背負って日曜日毎に通った。非力な僕を頼ってきてくれる人達が漏れることなく改善することを、祈った。僕にとってはこの「漏れることなく」がとても重い意味を持つ。役に立てない人が出ることはとても苦痛なのだ。その苦痛を少しでも軽減できるように、見えない力にすがっていたのだと思う。 そのうち、僕にとってそうした意味を持つ神聖な場所が、演芸場のように使われだして一気に通う場所ではなくなったが、まるで神様に救われたかのような女性が、神様に仕える人の本を持って現れたことで、神聖のろうそくが弱々しくもまだ、僕の脆弱な心の中で灯っていたことを知った。  この世の不幸を味わいきった人に訪れる笑顔こ触れられる幸運に優る喜びはない。失意の内に帰ってきたこの町は、僕にとっては「置かれた場所」だったのだ。