人それぞれ

 ハッキリ言って、その言葉の解釈は出来なかった。今帰ってパソコンの前に向かっても、色々想像は出来るが、真意は分からないままだ。 「ええ加減にせられえ」「ええ加減にせられえ」と言いながら、まるで若者が携帯電話で話す時の声量くらいで、ある老婆がテニスコートの回りを一周した。僕はいつものようにテニスコートの中を歩いていたのだが、老婆がその言葉を発するたびに、テニスコートの外周に張られているネットの下から、テニスボールが一つ転がり込んでくる。老婆が歩いているのはテニスコートの外で、どうやら中学生が失敗してネット越えのホームランを打って、そのまま放置していたボールを拾ってテニスコートに戻してくれているみたいだ。男ならネット越しに投げ入れるのだろうが、事実僕も時々そうしたことがあるが、老婆にはそれが出来ないらしくて、ゆるんだネットの下端を持ち上げてはボールを転がせているみたいだ。本来なら小さな善意の光景でしかないのだが、どうもそのかけ声との整合性に疑問が残る。  岡山弁の「ええ加減にせられえ」は標準語では「いい加減にしろ」だから全否定だ。だけど、中学校の敷地内に落ちているボールを、どちらかというと部外者である方が責めるのはつじつまが合わない。散歩という形態をとってはいるがどちらかと言うと僕らの方が不法侵入者だ。迷惑をかけないように遠慮がちに歩かせてもらってもいいくらいだ。怒る道理など全くないはずだ。お互い近づいたときに顔が分かったから挨拶をしたが、勢いのいいおばあさんだが決して性根が歪んだりはしていない。となると尚更あの言葉を発した意図が気にかかる。言葉のニュアンスとボールを一つずつ返してあげる行為の乖離も又興味がある。  人それぞれと言うが、本当に人それぞれで面白いと思った。地球上に70億もの人それぞれが今この瞬間もうごめいていると想像すると・・・やはり面白い。