剣玉

 若いお父さんが、一所懸命バンドエイドを品定めしているので、指でも切ったのと水を向けてみると、小学生の息子さんが剣玉の競技会に出るらしい。正式名は良く聞き取れなかったが、恐らくオーソドックスに玉を大皿、小皿に交互に載せるような競技で、それを延々と繰り返すらしい。テレビで見たことがあるから勝手に想像しているのだが。小学生は連続で4時間が限度に設定されているらしい。試合を前にして息子さんが怪我をしてバンドエイドが必要になったというのだ。  なんでも練習で3時間連続で出来たらしいから、僕が驚きの声を上げると、お父さんは世間ではスポーツなんかが上手なお子さんは沢山いるけれど、うちの子はスポーツは出来ないからと謙遜した。なにも謙遜などする必要はない。素晴らしいことだ。スポーツが剣玉に優るとも思えないし、99%のスポーツ少年が、いずれはただの人になるのだから、剣玉みたいな特異な競技に特化するのも素晴らしいことだ。 僕らの年齢になると、嘗て素晴らしく見えていたものが、実はたいしたものではなく、嘗てさげすんでいたものが、実はとても魅力的なものであったって事を発見することはしばしばだ。逆転とまでは言わないが価値観が大きく変わってくる。力あるもの、華やかなもの、高いもの、早いもの、一見陽に属する価値観が実は排他的で脅迫的で実用主義的であったことに気がつく。非力で質素で柔らかなものに親しみを覚える。学校でよい成績を収め、運動会で活躍し、スポーツ少年団でヒーローになっても大した意味を待たないことに気がつく。与えられた職業や与えられた環境で地味だが力を尽くし、少しだけ人の役に立てたことが実感できればそれはそれで素晴らしいことだと思えるようになる。空を飛ぼうが、道を歩こうが、海を渡ろうがたした差がないことを悟る。  牛窓を出てほとんど東京に着いてしまう時間を、1度も落とさずに剣玉を続けられる我が子を自慢するわけではなく、淡々と教えてくれた父親の背中を恐らくお子さんは見ているだろう。饒舌よりも雄弁な背中は謙遜がよく似合う。