満面の笑み

 母だけの特徴か、それとも多くの老人の特徴か分からないが、テーブルを挟んで腰掛け、声をかけた僕に、目をつむったまま話し始めた。つじつまはあってはいないが、声をかければ返事が返ってくる。  大腿骨を折って退院後、初めて施設を訪れた。入院期間中はベッドに横になっていただけだから、衰弱がどのくらい進行しているのか気になっていた。ところが外見は全く変わっていなかった。寝たきりを防ぐために敢えて行った手術が功を奏していて、以前と同じように車いすにしっかりと腰掛けていた。  何分経っただろうか、母が急に目を開けた。そして僕の顔を見ると満面の笑み、嘗て日常的にこぼれていた笑みそのもので・・・・「まあ、先生来られていたんですか」と言った。続いて「よくこんな所まで来て下さって」「こちらではあんまり診てくれんのですわ」と間をおきながら話し出した。その後は再びつじつまの合わない内容の連続だったし、満面の笑みも次第に消えていった。 僕を誰と間違っていたのか分からないが、どうも学校の先生ではなく医師のようだった。かかりつけの先生と、以前の施設の先生二人ともとても親切で優しい方だったから、そのどちらかだと思うのだが、どちらにしても息子には見せない満面の笑顔だから完敗だ。最後まで僕は先生で通したが、着実にしかもゆっくりと最後の儀式に向かって進んでいると感じた。もう待ち受けているのは眠るようになくなる大往生しかないと確信が持てる。苦しむことなく眠るように、それ以外の方が難しいように感じる。眼を閉じて眠っている時間が圧倒的に増えたみたいだが、そのまま本当の眠りにつくのだろうと母を見ていて思った。  取り寄せ品のバームクーヘンをほとんど口にすることなく、まるでおもちゃのように数十分遊んだ幼い母を僕はすでに神に委ねている。