後ろめたさ

 これで少しだけ後ろめたさから解放された。  かの国の子達が3年間の仕事を終えて帰っていくときには必ず挨拶にきてくれる。涙を浮かべたり、実際に泣く子達に向かってかけてあげられる言葉は「お父さんが行くからね、又すぐに会えるよ」だ。恐らく多くの子達に同じ言葉をかけている。別れを惜しんでくれる彼女たちに、実際は見送る僕の方が寂しいのだけれど、決して軽い気持ちで言っているのではなく、条件が整えば実行したいと思っているが、条件は未だ整わない。結果的には僕が嘘をついていることになるから、僕なりの誠意を見せて後ろめたさから少し解放されたいと思っていた。特に今日訪ねた子達の中の一人は数年前に不本意に帰国を迫られ、それも僕と別れを言う間もなく、泣きながら帰っていった子だから尚さらだ。帰国した彼女に絶対会いに行ってあげると慰めの言葉をかけたのに、それよりも先に彼女が日本に留学生として帰ってきた。  何年ぶりだろうと言う景色はもう新大阪で始まった。新幹線から在来線のホームに降りたとき、階上の混雑には似合わない、あたかもローカル駅のような雰囲気を味わった。学生時代、なるべく新幹線代を倹約するために、岐阜から新大阪まで東海道線を利用して帰っていた。このホームで降りてそこから新幹線乗り場に移動していたのだ。もう30年以上経っているのに「変わっていない」と感じた。同じことは奈良の大仏でも感じた。もう来日して2年にもなる彼女達は学費を稼ぐために、ほんの電車で10数分の所にある東大寺さえ見物していない。ならばと言うわけで久し振りに東大寺に行ってみたのだが、バスから降りるやいなや、嘗ての記憶が蘇ってきた。  世の中の変化が色々な形容詞を使って表現されるが、僕は寧ろ意外と変わっていないんだと今日感じた。変わっているようで実はそんなに変化していないのではなと思ったのだ。 出来れば日本人の心の中も同じ表現を使うことが出来たらと思うが、残念ながら心の方はかなり変わって、強欲が支配し、損得が物差しの中心になっている。  それにしても一人旅の疲れないこと。最近はほとんど引率者だからかなり気疲れしていた。往復6時間の移動も全く苦にならなかった。情報誌2冊完読のおまけも付いた。