免罪符

 想像していた以上に元気そうだった。もう少し痩せているのかと思ったが、数週間前と同じだった。腰掛けることが多いから、お尻が皮膚炎みたいになりかけていると連絡が施設からあったが、それを思わせない表情と姿勢で僕の前に腰掛けていた。会話はある一言以外通じなかった。色々と話題を変えて話しかけてみたが、全て空振りで、自分の世界から出てこなかった。いやもう自分の世界もなくなっているのだろうか。  唯一会話が成立したのは、もう少し暖かくなったら桜を見に行こうと誘ったときだ。それは明らかに通じたような気がした。ニコリとして同意の言葉を吐いた。それまでは時に厳しい顔をしたり、時に穏やかな表情に変わったりと、春の天気のような変化だったが、どちらにせよ会話は成立しなかった。施設の人の計らいで談話室とやらで二人だけにしてもらったのだが、最初僕の顔を見た瞬間の笑顔が嘘のように険しい表情に変わったとき、ああ僕はやはり許してもらえていないのだと思った。僕を苦しめまいと知らぬ顔をしているのだと思った。本来の母ならそう言った気配りは人以上にする。僕を恨んでいるかと確かめたいが、事実は恐らく明らかにならないだろう。母にまだ思考力が残っていれば僕を気遣い嘘をつくだろうし、完全に痴呆状態ならこれもまた確かめようがない。  僕は今日、まるで新幹線に乗るときのように難解で退屈な薬学の雑誌を持参した。恐らく会話は成立しないだろうから、せめて長い時間傍にいて上げようと思ったのだ。気の利いた言葉を投げかけてあげる術は持っていないから、ひたすら傍にいたことだけで許してもらおうと思ったのだ。思い出したような単発の声かけに、訳も分からず答える時以外母は眠っていた。何十年に渡る無償の愛に僕は免罪符で応えようとしている。