短絡

 クラシックファンの方には失礼だが、僕が第九の中で聴きたいのは例の合唱の部分だけで、あるいはあれと同じ旋律の箇所だけで、それ以外はどうでもいいのだ。素人の考えそうなことだが、CDを聴くときも、会場で生で聴くときも、早くあの旋律が流れないかなとか、合唱が始まらないかなとか、とんでもないことを考えている。テープレコーダーの時は早送りが出来ていたから、聴きたい箇所だけ探し出して聴くことが出来たが、CDはそれが出来るのかどうか知らない。まして実際に会場に足を運んだときなどそんなことは出来るわけがない。勿論美味しいものは待たされるほど美味しくなるのだろうから、その前の部分の盛り上がりは大切なのだろうが、合理的なことに慣れてしまったからか、短絡的に考えてしまう。  ただこの短絡は世のあらゆるところにはびこっていて、最早短絡から逃れることは難しい。地理的なもの、時間的なものならまだ分かるが、思考、あるいは感情の世界まで短絡が支配している。考えないこと、考えなくても良いことは、頭の回転と勘違いされ、愛憎も創造されない火花に化している。瞬間の使い捨てで世の中が回っていくのだから、その実りの貧弱さは想像が付く。豊を具現化してきた道具達もすでに反乱に転じ、道具によって滅ぶこともあり得る。道具に夢中になって個に埋没している少年少女を見れば分かる。電磁波で覆われた檻の中での捕らわれも居心地良さそうだ。  寒波で瀬戸内までが冷えている。エアコンをつけている薬局の中にいても冷え込んでくる。戸外で働く人もいるだろう。戸外で寝る人もいるだろう。短絡で切ってはいけない情景が窓ガラスの向こうに隠れる。