牛窓から津山まで丁度2時間かかる。だがその2時間の運転も、第九を聴けるならいとわない。  津山の第九を聴くのは初めてだ。今までは8人乗りの車を使えていたから、2箇所くらいを第九のはしごをすれば需要に応える事ができていたが、今は5人乗りの車だから、回数で稼がなければなかなか要望に応えられない。第九は素人にはもっとも分かりやすいクラシック音楽だと思う。だから僕もいつまでも第九の呪縛にとらわれていて、なかなかそこから脱出できない。かの国の女性達にとっても僕と同じだ。いや僕以下かもしれない。今日来日して間もない女性達を連れて行ったのだが、第九どころかベートーベンと言う名前も知らなかった。そうしてみれば日本の義務教育も悪く無いと思った。少なくとも第九もベートーベンも習ってほとんどの人が知っているから。第九の前に演奏されたウェーバーの「魔弾の射手」序曲も、演奏が始まれば50年以上前に聞いた覚えがあり、それこそ日本の義務教育の質を再発見した。  正しいかどうか分からないが、音楽は人それぞれに感じようがあるだろうから、あえて言わせてもらうと、第九はその楽章ごとに独立していても名曲だと初めて気づいた。今までかなりの回数聴いているが、第3楽章までは、第4楽章のための前奏曲でしかないと思っていた。第4楽章を待つような聴き方しかできていなかった。ところが今日は何故かそんなことは無かった。ただ純粋にどの楽章も楽しめたし、そのすばらしさを発見できた。  ところで、津山は県北の小都市なのに、どうして第九のコンサートを34回も出来ているのだろうと疑問に思っていたが、そして今日聴いたときになんて完成度が高いのだろうと思ったが、今もらってきた冊子を読み返してみると、嘗て津山には作陽音楽大学と言うものがあったのだ。今は倉敷に移転していると思うが、当時は大学のあった街なのだ。それだからあの人口の街で、オーケストラも合唱団も編成できるのだ。舞台に上がっている合唱団員は僕なんかよりはるかに高齢の方も混じっていたが、恐らくそれこそ34年間歌い続けているのだろう。  多くの人たちが共同で何かを作り出す作業は見ていて気持ちがいい。クラシック音楽などその際たるものだ。音楽を楽しませてもらうのは勿論だが、1つのものに皆が懸命の努力を重ねる。そしてそれが多くの感動を生む。僕らは受け手でしかないが、志は共有できているのではないかと思う。それは一にも二にも「平和であり続ける」と言う当たり前のことのように思う。ベートーベンもそんなことを考えて作ったのではないだろうか。