犬が草を、それも青々としてみずみずしいのを選んで食べるなんて知らなかった。僕にとって犬は、10数年前までは幼い時に噛まれた記憶のままで、ただ単に恐い動物だった。犬の考えなど分かろうはずがなかった。単純に吼えているだけだと思っていた。うるさくてやたら噛む動物。評価は最悪だった。  娘が幼い時にどうしてもというので飼った。赤ちゃん犬をもらってきた。ほとんど事後承諾だったが、犬の生態について知らないことばかりなので驚きの連続だった。このあたりの内容は僕みたいな素人が、言うべきものは何も持ってはいないが、冒頭の「犬が草を食べる」ことは僕が話してもよいかもしれない。恐らく犬を飼った事がない人には想像も出来ないだろう。逆に犬を飼っている人にとっては当たり前の話しなのだろう。一つのことを見るのに、立場や経験によって感慨が全く異なることは日常、しばしば経験することだ。「犬が草を食べる」もまさにその種のテーマだろう。  見ているとどんな草でもよいとは限らない。なんとなく清潔なところのものを好む。ごみが散乱しているような所の物はまず食べない。そして、葉が広い物は食べない。細くて硬そうな、刀の刃みたいなのを好む傾向がある。食べてしばらくすると、クエッ、クエッとえづきだし、胃酸と一緒に先ほど食べた草を吐き出す。草には白い粘液質の物が沢山くっついているが、これは犬がなめて胃の中に入った毛なのだろう。なるほどあんなに身体をなめる動物が、体内に毛を溜めないはずがない。それを犬は草にまつわりつかせて、或いは不消化の物を敢えて食べて嘔吐を催し排出するなんて、一体どのような知恵が働き、遺伝子が働いているのだろう。親に教わるわけでないのに何故犬はそんな事が出来るのだろう。  生きる為に、生存する為に延々と遺伝子を繋いできた地球上のすべての生物に敬服する。僕などが日常繰り返す行為や思考が、如何に取るにたらないことかよく分かる。明日僕がどこに行こうが、誰と何を語ろうが、「草を食べる犬」ほどの感激もなく、価値もない。学者は神秘の前にひれ伏すのではなく、神秘を素数に分解している。発展の行きつく先が破壊とは皮肉なものだ。