トイレ事情

 知って得もしないだろうが損もしない。まあ、後学のためくらいな気持ちで目を通してもらえればと思う。僕自身は結構衝撃的だったけれど。  食事が終わるのを待って三女が「お父さん、トイレで流したものは どこに行くのですか?」と尋ねてきた。日本に来たときからずっと誰かに尋ねてみたかったらしい。野菜が少ないと便秘をするという話をしていたからその延長で聞きやすかったのだろう。そこで浄化槽や下水道のことを説明してあげた。すると得心がいったようで気持ちの引っ掛かりから解放された様子だった。  それに乗じてと言うわけではないが、逆にあちらのトイレ事情を尋ねてみたくなった。と言うのは僕自身も随分長い間、尋ねてみたかったことなのだ。もう何十人もいる、かの国の娘達が「オトウサン ゼッタイ キテクダサイ」と言いながら帰っていくが、正にトイレ事情が気になっていた。水洗トイレ以前を当然経験しているから、いざとなれば大丈夫だろうが、ただもう40年くらいは経験していないから自信はあまりない。行ってみて耐えられないようなら帰国するまで便秘になりそうだ。  三女は山の上に家があるから、大きな穴を掘っていると言った。恐らく昔の日本のようなものだろう。次女はメコン川のほとりに家があるから三女とは全く異なる。さすがメコン川に近いだけあって、そこに流れ込む支流も多く、又その支流に流れるように小さな水路が一杯あるらしい。そしてトイレはと言うとその小さな水路へ直接落とすらしい。水路はトイレのところだけ柵がしてあり小さな魚が一杯いる。その魚が人間の便を食べてくれるのだそうだ。えさは大便だけらしい。人間が用をたそうとトイレに入ると、魚が一杯集まってくるらしい。「楽しいですよ」と笑いながら言うが、「思わず釣りたくなるのではないの?」と尋ねると「その魚は、食べない」とこれまた笑いながら答えた。  山では畑の肥やしに、川では魚の餌に。理にかなっている。正に自然の循環だ。昔の日本と同じだ。同じような経過を辿って今の日本のようになるのだろう。何十年先の未来にやって来た人間と、何十年前の過去に遡る僕ら夫婦と、不思議な共同生活だ。「お父さん、一緒にダラットで暮らしましょう」と言ってくれるが、魚にあの姿を見られたくはない。