装丁

 顔がいつも笑っている。顔の構造がすべて丸で出来ているからかもしれない。顔の輪郭から、眉毛、眼、鼻、すべてまん丸だ。こうした造りの人はいつまでも幼い時の純真さを保ち続けていて、心に棘がなく穏やかだ。公園で咲き誇る花でもなく、優雅に生けられた花でもなく、老婆が鍬を置く庭の迎え花だ。 聖書の中のどんな言葉が好きなのと尋ねたら2つ教えてくれた。「見ずして信じるものは幸いなり、天国は我のものなり」と「貧しきものは幸いなり」だ。戦後、田舎の安い給料から逃れて兄を頼って玉野にやってきたらしい。三井造船の下請け会社に職を得て、結局は玉野の人になってしまった。聖書の中の貧しきとは決して経済を言っているものではないが、彼は敢えて経済と重ねた。  彼はさすがに長崎の方で、キリスト教はそこにあるもので、特別なものではない。このまるで普段着そのものの平常心が僕ら中途入信者には越えられない壁だ。見ずして信じることが出来る幸いは、見なければ信じない合理主義を凌駕する。  戦後の混乱期、少年は、祭壇の前で神父様と並びラテン語で御言葉を唱えていた。信仰さえあれば生きてけると確信していた少年は、歳月を顔の皺に刻み、謙虚を心の中の天国に積み上げて、小さな共同体の中に咲き続ける。  ここ彼処で無数の読まれない本が横たわるが、装丁されない表紙にも星は輝く。