純情

 玄関を入ると丁度その人がいて僕の方をじっと見つめた。人なつっこい笑顔だ。朝の挨拶を形通りにすませると僕はギターの準備をした。1時間半くらいのミサの後聖堂から出ると又その人が僕の方を至近距離からじっと見つめる。そして人なつっこい笑顔で意を決したように「私もギターをやっていたんよ」と言った。「ええっ!」驚きの声しか上げれなかった。似合わないことこの上ない、想像もできないとはこのことだ。このギャップを何に例えたら理解して貰えるだろうか。イチローが道端で物乞いをしている、クイーンエリザベス号が宇野港に停泊する、福山雅治が僕の顔を見て「負けた」と言う。いやいや最後はありそうな話だから例えにはならない。前二つくらいのギャップと想像してもらえばよい。若いときにギターをやっていたのなら、僕の代わりにフィリピン人の歌の伴奏をして貰えれば有り難い。正気に戻った僕は「ご主人、来週から彼らのために伴奏をしてっ!」と本気で頼んだ。するとその男性は僕のギターのネックを握るようにして、「見てごらん指が短いから届かないんよ」と言う。しかし僕に言わせれば十分届いている。「ご主人、難しいテクニックを駆使しようとしているんではないの」と言ったが、例の笑顔で拒否された。  驚いたことに話にはまだ続きがあった。何とその方は昔トランペットもやっていて、三井造船管弦楽に勧誘されたらしいのだ。当時の思い出話を少し聞かされたが、人の魅力ってものはギャップに尽きるとつくづく思い知った。以前、幼いときにラテン語で聖書を読んでいたと聞かされていたときから、僕はほとんど尊敬に近い感情を持っていたのだが、あの顔で、あの体型でギターだのトランペットだのと言われると、ほとんど尊敬を越えて崇めたくなる。恐らく戦後のまだやっと困窮期を過ぎようとする頃を青年として過ごした世代だと思うが、僕ら戦争を知らない世代と同じような楽しみを持っていたことに安堵する。  僕はこれ見よがしには生理的に反発する。如何にもの人の如何にもには嘔吐する。もう2年以上僕はギターを弾いているのだが、そんな僕にやっと心を開いてくれて青春の一風景を語らずにはおれなかったその人の純情が好きだ。