後ろ髪

 いざ出かけようと思って2階に上がってみると、まだ夕方の6時なのに母がベッドの上でモコと眠っていた。せめてクリスマスイブの夜くらい、教会でフィリピン人の歌の伴奏(騒がしい中、たった2,3人で無伴奏で歌う惨めさを味わせたくなかった)をしようと思って母を少しあずかって貰うように兄夫婦に頼んでいたのだが、起こしてまで寒い中を連れていくことは出来ない。火の元を何重にも警戒し、後ろ髪を引かれる思いで出かけた。案の定教会に着いたのはミサの開始と同時だった。ギターのチューニングをする余裕もなかった。 必死の思いでたどり着いた割には閑散としていた。気を利かして遠くの駐車場に車を置こうと思ったのだが、1台も置いていなくて、例年のようにその駐車場を契約していないのだと理解し、より遠くのスーパーの駐車場に図々しく止めた。教会の玄関の扉を開くまで人に会わなかった。僕がそこに通い始めた頃は、本当のクリスマスの過ごし方を見んとばかりに未信者の方を含めて人で溢れていた。僕はいつも片隅でギターを弾くのだが、そのギターの持って行き場に困り、熱気で気分が悪くなることもあった。 その夜の様な光景はすでに3年前から予想していた。その頃から教会が、宣教という布教活動を錦の御旗に、人が人の上に立つようになった。宣教という名で人集めのために安易な娯楽を売り物にするようになった。そしてついには何を勘違いしているのか、自分たちの意に反するものを意図しようが意図しまいが結果的に追い出して、居心地の良い老人クラブを作った。古くから、多くは長崎から移住してきた人達が中心に支えてきていた飾らない、それこそ歴史すら感じていた信仰の風景に取って代わった。長崎出身組の気取らない力まない物腰に嘗て惹かれた僕を含めた多くの人は居心地の悪さに耐えられず去っていった。  もう何回も経験したクリスマスのミサだから、特別な感情も湧かない。寧ろ痴呆気味の母を置いてきた後ろめたさばかりが繰り返し波のように押し寄せて来た。僕は母を置いてきたリスクより優る何を求めてきたのだろうと自問するが、フィリピン人の伴奏以外に答えを見出すことは出来なかった。 僕の心と無関係に式は進んだ。信者が声を合わせて祈願するまでほとんど式に心は付いていっていなかった。ただそこにいて、伴奏の時間を待っていただけだ。ところがその祈願を先導者に続いて唱えるのだが、その内容がそれはそれは恥ずかしくなるような代物だった。高貴すぎて、高尚すぎて、とても僕ら道徳的に未熟な人間は口に出すことがはばかれる。いやその言葉が行き交う空間にもいられないくらい作為的で耳を塞ぎたかった。どれだけの人格者で初めてあのような言葉を口に出せるのだろうと考えると、僕ら未熟な人間はいたたまれなくなる。高尚な美しい言葉がまるで研ぎ澄まされた刃物のように迫ってくるのだ。そしてその場を逃げ出したくなるくらい恥ずかしかった。ああ、こんな神にでもなれというような理想主義が、実際は教会から人を遠ざけているのだと思った。知性も理性も経済も肩書きも、それに徳まで備えられたら、僕らには太刀打ちできない。そっと退場するしかないだろう。 このことは後日知ったのだが、その場に断酒を頑張っている人達も出席していたそうだ。ミサの後のパーティーではビールもワインも並べられていた。勿論断酒を頑張っている人達の姿はなかった。彼らがパーティーを辞退したのか、あるいはそうさせたかったのか知らないが、本来高尚な人間なら、酒を引っ込めて彼らを引き留め、聖夜を祝うのが筋だと思うが、高尚すぎてそこまで気が回らないらしい。何年も懸命に酒を断つ人のことに思いを至らすことが出来るなら、たった一晩酒を我慢することなど簡単すぎて比べることも不遜だ。もっともおばちゃん達ばかりの教会で誰が一体酒を本当に飲みたいのだろう。  何も知らないのがいい。知れば知るほど教会というものが崇高な場所から特異な場所になってしまう。救いを求めるところであり続けれるのかはなはだ疑問だ。いやそんなこと 、ひょっとしたら誰も望んではいなかったのかもしれない。祈願の内容と、パーティーでの配慮のなさのギャップを目の当たりにすると・・・僕にはそう思えた。