落語

 パソコンが普及し始めた頃、落語でこんな面白い話があった。お年寄りにパソコンの使い方を教えている場面で「マウスを上に移動してください」と指導されたお年寄りが、マウスを空中に持ち上げた話だ。当時時宜を得た新作ネタに大笑いしたのだが、今日、僕の薬局で同じようなことがあり、居合わせた数人が大笑いした。 2週間前に一緒に買いに行ったパソコンを、2ヶ月前に日本に初めてやって来たかの国の新しい女の子が使い切れないと悲しそうな顔で訴えたので、その道に大変詳しい人にお願いして、今日直接教えて貰う段取りをした。僕のホームページは勿論、ことインターネットに関しては全幅の信頼を置いている漢方問屋の専務さん(肩書きは立派だが僕よりかなり若い)なのだが、最初に、日本語が通じないから「○○○○語で教えて!」と頼んだのがまずかったのか、あるいはパソコンを持って入ってきた二人の女性がまぶしかったのか、それこそ落語の世界そのままを見せて貰った。  まずかの国の女性が自分のパソコンを開いた。少し出来る友人がある程度は使えるようにしてくれていたのだが、なにぶんウインドウズ8だから、操作の仕方がかなり違うらしくて、うまく設定できなかったり使えなかったりするそうだ。片言の日本語を、良く分かる日本語に変えるのが得意な僕の通訳(?)で何をやって貰いたいかを明確にした。すると専務さんがおもむろにコードレスのマウスを持って作業を開始してくれた。とても慣れているはずの彼が何故か最初から苦戦している。「このマウスは、今までのマウスと反対に動くんですね。さすがウインドウズ8ですね。マウスを右に動かすと矢印は左に動くんです」と感心しながら、しかし手こずっている。それを見ていた娘婿が「マウスが反対です」と指摘した。僕などコードレスのマウスなど使ったことがないから分からなかったが、そう言えばなんか不自然な向きに持っている。専務さんもすぐに気がついたが、鳴り物入りのツウの失態に、一同で大笑いした。かの国の女性達もすぐに理解して、○○○○語で笑っていた。いや笑い声は万国共通か。 仕事納めの今日、日が暮れてから岡山から彼女たちのために来てくれて、いくつもの要求に答えてくれた。彼女達が満足して最後のお礼を言うまで付き合ってくれた。パソコンの持ち主でない方を飽かせないために、娘夫婦が接待してくれた。妻はとっておきの、これは本当にとっておきで、横浜の姉が送ってきてくれたスイーツをわざわざ今日のためにとって置いたのだが、それを3人に出してくれ、まだホームシックから抜け切れていない二人を精一杯もてなしてくれた。 僕ら家族がいくら頑張っても、その結果かなり多くの方の役に立っていても、それは所詮経済行為なのだ。漢方薬を使い始めてから決して経済を目的に仕事をしては来なかったが、それでも所詮経済行為なのだ。ただ、今夜のように、決して豊かな国からやってくるのではない子達に、完全に心を開いて全てを受け入れてあげようと努力することからは一切の経済行為は排除される。歳と共にそうした喜びが比重を増してくる。 膝を曲げてお辞儀するから、かなり異様な光景だが「オトウサン、ヨイオロシヲ ムカエテクダサイ」と覚えたての日本語ではにかみながら挨拶をしてくれる。日本人ともかの国の子達とも、裏表のない人間関係こそが僕の薬局の宝なのだ。