コップ酒

 数年間、ギターで伴奏したり、自分もコーラスで歌ったりしていたのだが、今日みたいに聴き手になったことはなかった。聖堂で、フィリピンの若者がオルガンを伴奏に数曲歌ったのだが、なかなかいいものだと思った。勿論プロではないから完成されてはいないが、それでも独特のメロディーが昼下がりの精神を少しだけ鎮めてくれた。  やはり信仰の場ではこの様に神を賛美する唄が適している。その事をかねて主張して退場したのだが、自分の主張が正しかっただろうことを、期せずして確認できた。居心地のよい空間を見つけた老人が占拠しているいびつな空間にその後1時間余りいたが、僕の頭の中には明日から再び訪ねてくるだろう人達のことで溢れていた。少しでも心の重荷をとりたくてかの国の女性達と共に訪ねたのだが、その時すでに僕の心は明日に備えて戦闘モードの準備をしていた。  ある人が数日前、「教会は元気な人ばかりいるから行きづらい」と言った。「外からは幸せそうに見えても重荷を背負った人が一杯いるかもしれないよ」と僕が答えると、その人の息子さんが「今の教会が果たしてそんな人を受け入れる場所になっているかどうか分からないよ」と言った。とても熱心な信者さんである息子さんが僕と同じような考えを持っているのでびっくりした。僕みたいなエセ信者はどう言おうと発言に意味はないが、次世代を担おうかという若者が僕と同じような懸念を持っているのは心許ない。  身体も頭も酒の中で泳いでいるような人がいるらしい。その種の病院に出たり入ったりしているのだろうか。教会に来て真ん中に腰掛けるべきその人は今日いなかった。美しい言葉は行き交っていたが、元気な人達の間を行き来していただけかも知れない。どんな治療も退院後の孤独を癒すことは出来ない。それが改善されない限り再び酒の海に飛び込まなくてどうして生きていけようか。神聖な場所でお酒を頂く高貴な方々は嘗て彼にコップ酒の一杯でも飲ませてあげたのだろうか。

一杯飲み屋で 安酒をあおって 
それで毎日毎日が 忘れられるというのなら
ボクは有り金の すべてをはたいても
有り金のすべてをはたいても
 
夕暮れとなって 青い灯赤い灯が燈り
黄昏が街角を 漂うとき
やけ酒をあおって よろめき歩き
酔っ払いの一人一人に尋ねてみるがよい
本当にお前は それで
本当にお前は それで幸せなのかと
人生の宿命を少しでも
逃れられたと本気で信じているのかと
 
そして千鳥足を真似て
ネオンの眩い 色町あたりをぶらつき歩けば
あぁ ボケた網膜に 又も淋しい
幻が引っかかってくる
                    唄  高田 渡