取り柄

 いつもなら十分余裕を持って椅子に腰掛けることが出来るのだが、クリスマスともなると信者でない方も沢山来られ、肩が触れ合うほどの混みようになる。そんな中でフィリピンの人達が伴奏なしで歌うのを見て見ぬ振りは出来なかった。想像しただけで気の毒だった。だから僕はギターを持って、歌う曲を一杯持ってクリスマスイブのミサに参加した。  ところが教会の駐車場に着いてみていつものクリスマスとは違う雰囲気にすぐ気がついた。止めてある車がないのだ。お客さん用に確保しているスペースに一台も車はなかった。案の定教会の中も普段のミサの参加数を少し越えている程度だった。僕の足が遠のいた頃はまだ結構ミサに人が集まっていたから、それを僅かに越えるくらいの数だった。用意された多くの椅子が空しく主を待っていた。結局その夜に教会を初めて訪ねた人は一人だけだった。逆に、当然参加してもよい数人の顔も見つけることが出来なかった。僕にはこの豹変が理解できるが、それを理解できない人達が今だ振り付け師を気取っている。  その中で僕はとても美しいものを見た。勤めている会社の偉い人の計らいで特別ミサに参加できたかの国の若い2人の女性がアオザイを着て、化粧して正装で参加してくれたのだ。普段働いている会社のユニホーム姿しか見ていなかったので、それは見違えるばかりだった。少なくとも3代続くクリスチャンの家庭では当然と言えば当然だが、僕にはまぶしいばかりだった。それは、民族衣装が美しかっただけではない。彼女たちの凛とした姿勢や謙虚な物腰、ミサに預かれる喜びの表情、全てが彼女たちを輝かせていた。嬉しい、嬉しいを連発していたことでその喜びようが伝わってきた。発展途上の国からやって来た彼女たちの存在は、精神の発展を止めたこの国の人の心を、とても癒してくれた。 謙遜ではにかみ屋で働き者の彼女たちが、この国やこの国の人に良い印象を持って帰ってくれることを切に祈っている。一つでも多くの笑顔を贈り、一つでも多くの笑顔をみたい。それは薬剤師の肩書きがなくてもできる僕の数少ない取り柄かもしれない。