運動場

 テニスコートから中学校の運動場は、体育館や倉庫に邪魔されて断片的にしか見通すことはできない。だから例えば人がグランドをトラックに沿って走っていても断片的にしか見ることは出来ない。 この夏何度か同じ光景を早朝見た。誰かが何かを叫んでいるような声が運動場の方から聞こえてくる。早朝なので僕は犬を放している飼い主が呼び戻す声のように勝手に想像していた。ところが、グランドをかなりのスピードで走っている人の姿が見える。テニスコートからは結構離れているので、走っている人が若者かどうかなど分からないが、かなりのスピードだから恐らく若い人なのだろう。そしてトラックに沿って走るランナーを、時に追いかける太り気味の男性がいて、その男性がストップウォッチでも見るような仕草をしながら叫んでいたのだ。二人の関係は分からない。コーチと選手か、熱心な父親と息子さんか。熱帯夜をそのまま延長したような早朝、ジョギングではなく、走り込んでいる姿に驚く。僕など、ゆっくり歩いてテニスコートを巡回するのがやっとなのに、同じ生き物には思えない。  そもそもどんな機能が一番に衰えるのか知らないが、僕は走ることが最初に来る衰え、最初に直面させられる衰えだと以前から思っている。運動会で転ぶ父親や母親を見るときに、誰にも忍び寄る悲哀を感じていた。一見滑稽な光景も、当事者に突きつけられる現実は厳しかったに違いない。走れることと、走れないことの間には大きな溝がある。筋肉と骨格系が保証されている人とそうでない人の生活の質は全く異なる。どんな動作だってできる人と、できる動作の中での選択肢しかない人との生活の質はかなり異なる。 マスコミの餌食になりながら二人の偉い人が一つの肩書きを巡って争っている。もう随分昔のたった一つの業績だけが未だ唯一の拠り所の人間と、たった一つのミスですべての評価を落とした人間の戦いみたいだ。どちらが勝つのか僕には分からないが、二人を走らせてみればいい。足腰がしっかりしてコーナーを駆け抜けることができる方に任せればいい。だって、この国は、足腰だけが取り柄の大多数の人達が、首から上だけで生きていける少数の人達を支えているのだから。