反比例

 この差はなんだと思うけれど今更嘆いても仕方ない。誰もが通る道なのだから。ただせめてあの時代に、その幸運に気がついていればもう少しはまともな日々を送っただろうと、若干の後悔が鎌首を持ち上げる。 12時を回って寝ても、5時台に目が覚めてしまう。それで疲労が残っているかと言えば結構スッと起きれて、朝刊をマーサージ機にかかりながら読む。ほぼ30分で読んでしまうから6時過ぎには中学校のテニスコートをグルグル回り始めることになる。以前はフィリピン人の為に歌を覚えなければならなかったから、英語の歌をイヤホンで聴きながら歩いた。今は原発事故についての講演のテープを聴きながらテニスコート2個分を周回している。だから外部の音はほとんど聞こえないのだが、今朝は隣の運動場を走る青年が目に入った。偶然だが僕が運動場に近づくときに、青年はテニスコートに面したあたりを走る。だから離れてはくっつくような感じになったのだ。ただ残念なのは僕がテニスコート2個分を歩く間に彼は運動場をフェンスに添って1周走って来る。田舎の中学校は恵まれていて、200mトラックがあるが、それが運動場の中ではかなり小さく見える。運動場が広いからだ。フェンス沿いに走れば、トラックの倍どころではないと思う。その距離を走る時間が、僕がテニスコート2個を周回する時間とほぼ同じなのだ。時速で言うとどのくらいの差があるのか、距離で言うとどのくらいの差があるのか、はたまた心肺機能や筋力の差はどれくらいの差があるのだろう。どうやら僕と青年との差は、生きている時間に反比例し、希望や夢に反比例し、純粋さに反比例し、姿形や心の美しさに反比例しているのだろう。  多くの可能性と活力を人生の内で一番備えていることを自覚して、喜んだり悲しんだり憎んだり愛したりして、今この時期を生産的に生きてほしいと願う。早朝から心臓も肺も筋肉も過激に動かすことが出来るその青年を見ながら、一向に消化できない時間を恨みながらパチンコの台に向かい続けた嘗ての青年が悔恨を込めて切に願う。