捨てぜりふ

 この半年くらいの間に、住所変更の連絡が数軒入った。そのほとんどが名字も変わっている。恋愛はもとより結婚なんてあり得ないと言っていた人までその中に含まれている。その話題に触れると、思わず泣き出した女性もいた。あり得ない話があり得たのだから、勝手に諦めたり勝手に居直ったりしない方がいい。 何でも難しく考えないことだ。難しく考えるのは大学の教授や研究者に任せておけばいい。僕ら凡人は深く難しく考えたらますます混乱して出口を失う。専門家は出口を捜すのが仕事だが、僕らは出口を閉ざしてしまい自分で監獄の鍵を閉めてしまう。 例えば過敏性腸症候群は恥ずべきものなんかではなくて、寧ろ人間として繊細さに優れていると何度も言ってきた。その繊細さを芸術とか人助けとか、仕事などに使う事が出来れば最高の長所だとも言ってきた。それなのに致命的な欠点として捉え、上記のように恋愛も結婚もそれを理由に諦めてしまう。恋愛や結婚に意味を認めないならそれはそれで確固たる価値観でいいのだが、もしそうではなく意味を感じているなら俄然過敏性腸症候群を逆手にとって邁進すればいい。自信がないなら謙遜を、勇気がないなら思慮深さを、幸せな人が羨ましいなら平等主義者を名乗ればいい。相手によってはそれらを由とする人も多い。寧ろこんな希望もなく殺伐とした時代にはそんな人の方が合っているのではないか。名乗っている間にきっと謙遜も勇気も博愛も磨きがかかってきて、元々の性格に尚深みを与えてくれるだろう。  人の価値観や考え方などいくらでも変われる。信念を通すことと正しいこととは異なる場合も多い。正しい事も時代によって結構変遷する。しがみつくほどの普遍の価値観なんて存在するのだろうか。明日の自分なんて分からないと捨てぜりふくらい言えるのが格好いい。