平和

 時折、義妹の家での法事などで見かける顔が大きく新聞に出ていた。何年か前の鉄道事故でお子さんを亡くした方だ。記事を読んで心の傷の深さのほんの一端だけを知った。悲惨すぎるお子さんの最期を確かめずにはおれなかった親の苦悩が記事で紹介されていた。目を背けたくなるような写真やフィルムの中からわが子を捜したらしい。  そう言った方と同席した場合の言葉を僕は今だ知らない。その家での存在感がまるでない僕だから、末席で一人もくもくと料理を頂き、関西人ばかりのにぎやかな話を聞いているのが関の山だ。その方と関係の深い人ばかりが集まっているから、どなたもやはりその話題には触れたがらない。しかし触れないのも又不自然だから、勇気を振り絞ってその話題にリーダー格が敢えて触れる。直視するには余りにも悲惨な内容だから、関西人特有のボケとつっこみでなんとか空気をごまかす。これが関東の人ならどの様な会話になるのだろう。  この町である若い方が亡くなった。その親と親交のある女性が、どの様に声をかけていいか迷っていた。それを相談されても僕にはやはり上手くかける言葉など考えることは出来ない。どちらかというともっとも苦手としている分野かもしれない。僕はうやむやな言葉が苦手なのだ。聞こえるか聞こえないかの絶妙の挨拶は出来ないし、形式的な言葉なら黙っている方がましだ。沈黙に耐える勇気も持ってはいないが、用意した言葉を吐くのはもっと苦手だ。  出来ればその様な難しい状況におかれたくない。その状況が必要ないくらいの平和が欲しい。どの家族にも、どの人にも、かける言葉がないような悲惨な状況に巡り会って欲しくない。そんな言葉が必要ない社会であって欲しい。言葉が下手でも構わないくらいの平和が何処にでも溢れていて欲しい。