不謹慎

 なんだこれはと驚いたけれど当然修正されるものと思っていた。しかし、その気配は全くない。神聖な時間だから笑うわけにはいかない。一生懸命我慢しようとしたがいつまでもつかって言うせっぱ詰まったものを感じた。もし笑ったりしたものなら不謹慎と思われるので、懸命に笑いをこらえて顔を横に向けていた。いやいや、盛り上げるために懸命に努力してくれているのかと思ったが、その意図はないらしい。ついに表情が崩れて笑い始めてしまった。いけないいけないと懸命に踏ん張ってみるがもう止まらない。ついには手が全く動かずにみんなに完全に背を向けて涙を浮かべて笑いの壺の中であえいでいた。すると4人の男性はさすがに僕の異変に気がついて僕をのぞき込んだが、何ら気にとめることなく我が道を貫いた。近くにいた女性がいてもたってもおれなくなったのか、僕らの傍に来てリードし始めた。それでも最後まで何ら軌道修正は行われなかった。腹筋がいつまでも痛かった。  甥からフィリピンの人達は音程がずれていても全く気にしないで、大きな声で唄を歌うよと教えられていた。その意味が初めて分かった。今までは特別旨い女性がリードしてくれていたから問題はなかったのだが、その朝男性4人だけってのが分かってうすうす不安を感じていた。ギターの前奏もつけたのだが、最初の音からまずはずれていた。それも4人揃って同じ音ではずれていた。一瞬ハモってくれているのかと思ったが、和音のどの音にも属さない不愉快な声だった。どこから修正されるのかと思ったが、そのずれたままで最後まで貫徹した。数週前旨く歌えた一番若い男性も、もっとも声が大きい男性に引きずられてついに最後まではずれた音で通した。その音のずれようも半音どころでなく、再現不可能な堂々のずれだった。  このおおらかさがいいのだろう。照れはアジア人共通のような気がするが、照れながらでも良くやってくれる。繊細の求めるところが違うのだろうか。恥の文化に浸っている僕からしたらその辺りはおおらかだ。真似たいとも思う。旨く唄うことと楽しく唄うことの差だけではなく、旨く生きることと楽しく生きることの差も教えてくれているように思う。