後ろ姿

 4人の後ろ姿。左から段々右側に低くなっている。左端が恐らく僕より一回りくらい若いお父さん。その次がお父さんの背に迫っている中学生の男の子。その次が男の子に抜かれたお母さん。そして右端が、今日聖体式と言って、キリストの身体を象徴するパンをいただける資格を得た小学生の女の子。白い服に青の帯を結び頭にレースのベールをかぶっている。2ヶ月間神父様に付いて勉強をし、やっと許された資格。今日からは大人と同じように「キリストの身体」をいただける。  その光景を後ろから見ていて込み上げてくるものがあった。それはきっといつか見た光景、いや、いつか演じた光景に違いないからだ。ある時期、15年間位を、今日見た光景のように過ごしたはずなのだ。背中からささやかな幸せがにじみ出ていた時代があったはずなのだ。僕はすでに、2万ページの読み人のいない小説を書いているのに、わずかの登場人物さえ、幸せに出来ていない。ほんの少し成績が上がり、ほんの少し良い仕事を得、ほんの少し健康であるように願ったが、全て得ることばかりで、分かち合う喜びを願うことはなかった。年齢と共に、心さえも枯れてくるようになって初めて無欲の心地よさが分かり始めたが、多くを望み多くを手放さなかった日々は、あの後ろ姿にも投影しているに違いない。  午前10時と午後4時に、同じ土手を車で走った。河原に一杯自転車を並べ、高校生らしきブラスバンドが行進の練習をしていた。金管木管楽器を吹きながら、黒色で統一されたジャージが不揃いな行進をしていた。あの高校生達は、少なくともあの河原で6時間行進の練習をしていたはずだ。その間僕は、読むに耐えれぬ1ページを、岡山の街が一望できるビルの最上階で塗りつぶしていた。居心地の悪さはその高さの故ではない。  負け惜しみのようなジョッキを嬉しそうに傾ける昔懐かしい人達の所に帰っていった。