蜃気楼

 車に高齢者のマークを付けているから、見かけよりは年がいっているのだろ。大柄で背筋が伸びているから若く見える。ただ、膝関節が曲がりにくみたいで、キッポの様に小股でゆっくりと歩く。案の定、膝にするサポーターを買った。会計がすんでから、「よく働いてきたんでしょう」と、一声かけたら無口な口が開いた。いろいろ話したが、印象に残った内容がある。  父親が早く死に、貧乏を極めたらしく、幼いときから身体を道具の一部として働いた。昔の人は皆そうだ。最近の人、まして都会の人は見る機会がないから知らない人も多いだろうが、農作業に欠かせない「ネコ車」と言うものがある。1輪車をバランスをとりながら手で押して荷物を運ぶものだ。狭いあぜ道でも使えるから重宝する。あぜ道を押す農夫の姿は郷愁を帯びて目に浮かぶ。そのネコ車の車輪は嘗て木で出来ていたらしい。だからかなり重たかったそうだ。それが戦後タイヤになったときの軽さに驚いたらしい。その話に及んだとき一瞬老人の目に涙が浮かび言葉がつまった。たった、それだけのこと、木がゴムになっただけの想い出に涙する老人の青春はどんなものだったのだろう。ほとんどの人が貧しかった時代に何の灯りを目指して暗い海を泳いだのだろう。どんな島に泳ぎ着いて慰められたのだろう。極貧の時代からものが溢れる時代までをどの様な感慨で振り返るのだろう。  軽トラで老人が帰っていく姿は、豊かさの象徴か。いやいや誰も待っていない島の家に帰っていく姿は、豊かさと交換に手に入れた老いの孤独色した蜃気楼。