帰っていった若き友人

帰っていった若き友人へ  貴女は気付いていないと思うが、実は今日3度、僕は涙を流したのです。教会で貴女の真後ろに席を取り、貴女の希望通り、貴女のガス漏れを確認しながら神父様の説教を聞いていたとき。神父様が「人生には沢山の苦難がある。苦しいことや辛いことばっかりの人生・・・」と言われた時、僕は貴女のことを考えてしまい、この華奢な後ろ姿の女性の苦しかっただろう青春に思いをはせたのです。キリストが荒れ野でなにも食べずに過ごした日々に、悪魔から一切の権力、繁栄を約束された誘惑を退けたくだりの時に、この女性に、幾多の幸福への誘いがあり、そのほとんどを拒絶してしまったのではないかと思ってしまったのです。  2度目は、貴女が頭を下げ、僕が敬愛する神父様から祝福をして頂いている姿を席から見た時です。僕も妻も薬剤師もすべての五感を動員して貴女のガス漏れを探求しました。特に僕も妻も2泊3日の間に、貴女が要求するすべてのことをやりました。貴女の座っている座布団やじゅうたん、貴女のお尻、車の中の数時間、教会の人の中、繁盛してごった返していたうどん屋の中、貴女が漏れたと言う一瞬の誤差も逃さないように。僕がお世話している他の人達の訴えと全く同じ感覚を共有していても、やはりガス漏れは存在しない幻の「思いこみ病」でしたね。貴女みたいに優秀な学歴を持っている人だって、自分のこととなるとここまで追い詰められるのだと僕は驚きました。貴女の恵まれた才能が制御を失っているかのようにも見えました。僕は薬剤師として、すべてを尽くしました。後は、神父様の愛を頂いて欲しかったのです。貴女の頭を優しく大きな手で覆い、神父様は貴女の幸せを祈って下さいました。聖堂の中にいる全員のところに回ってこられ、温かくて柔らかい手で握手をし「愛しています」と貴女にもおっしゃって下さった。僕は勿論、聖堂の中にいる全員、貴女を「愛している」のです。僕達は「愛される」ことより「愛する」ことを目指しているのです。  3度目は、貴女がゆっくりと岡山駅の新幹線構内をエスカレーターで登っていくのを最後まで見送った時です。これが貴女に会う最後になるかもしれません。貴女が完治して僕が必要になくなれば会うことはありません。貴女が失った青春を取り返し、充実した人生を歩んでくれることを手を振る貴女に心から祈っていました。消えていく貴女の姿は、僕が愛する娘と同じ姿でした。娘を見送った記憶と重なって涙が止まりませんでした。貴女の苦しい歳月は、失ったものばかりではありません。貴女が失ったものは取り返しがつくものばかりです。お金や物を利用すれば取り返せられるものが多いはずです。貴女と一緒に暮らした3日間で貴女が僕達にくれた感動は、貴女が苦しかった歳月のうちに身につけたものです。無形の愛を貴女は得ています。貴女が得たものはどんな秤や物差しでも計れません。ただ貴女の得たものは、微笑みや涙ではかれる愛に満ちた心です。  貴女を見送って帰ると、我が家は一人の住人を失ったように静でした。貴女がいるほうが自然なような錯覚に陥りました。ガス漏れがいかに作られた「幻肢痛」か僕は今回のことでも確認できました。やり残したことはないくらい一緒に検証をしました。帰ってから不安に陥ったときは3日間の出来事を思い出して、客観的事実のみを追求するように心がけて下さい。  遠くの空の下、貴女の幸せを祈っています。楽しい時間をありがとう。