懺悔

大学を卒業してすぐに牛窓に帰ってきてから、
母とは1.5㎞位離れたところで暮らしました。
当初は支店で母と一緒に仕事をしました。
数年で新たに僕の薬局を作り、今に至っています。
その後、多くの期間は母は本店で、仕事を父と続けました。
そして最後の数年間は本店を閉めましたから、僕のところに毎日歩いてやってきて、雑用をこなしては帰っていきました。85歳くらいから92歳までです。
 結果的には、高校、大学のために牛窓を離れていた期間を除いては、ほとんど毎日顔を合わせられるような幸運に恵まれていました。おそらくその幸運は僕にとっても母にとってもだと思います。
「みるみる小さくなって体も不自由になってしまった母」あなたと違い僕の場合、気が付かないうちにと言ったほうが正しいと思います。92歳まで本当に優秀な働き手であってくれたので、僕はその老いを気付くことなく過ごしてしまいました。
 ところがある日、母の家の近所の方から、母の挙動不審について情報をいただき、母に痴呆が訪れていることを知らされました。僕の目の前の言動は、母のすべてを保証するものではなかったのです。
 それからはあなたの表現と同じ「見る見るうちに」痴呆が進行してしまいました。危険を伴う行動が頻繁にみられ、同居して1年を過ぎたころから妻の介護力ではどうしようもなくなった時に、施設に入ってもらう選択を迫られました。僕は5人兄弟ですが、その決断は僕自身にかかっています。兄弟姉妹たちは僕の選択を尊重してくれますから、すべてが僕自身にかかっていたのです。
 ある日母が、2階の窓から身を乗り出して、すだれのゆがみを直しているのを偶然道路から見ました。そこで最終決断をしたのですが、今でも母の思い出として一番鮮明に出てくる場面をやがて迎えるのです。
 ある日母は、妻の車に乗せられ、いとこが紹介してくれた施設に向かいました。ほとんど喜怒哀楽を失った母でも、どこに行くかは言えませんでした。久々のドライブを喜んでくれていたかもしれません。見送った僕は罪悪感で自分を責め、哀れな母の顔から逃れられなくて涙が止まりませんでした。今こうして文章を書く間も、涙が頬を伝わります。
 結局母に会えたのは2か月くらい後です。恐る恐る施設に行き、恐る恐る母に会いました。まったくの無表情でしたが、僕はにらみつけられているように感じました。
 その後6年間、僕は施設に休日ごとに通いました。かける言葉は少なかったですが、母を施設から連れ出し、車いすをひたすら押しました。すべてが懺悔だったのです。
 次は僕の番。何かにつけ頭に浮かびます。仕事や誰かの世話をしている時以外は、存在を増します。その現実に唯一安堵をもたらしてくれるのが「母に謝ることができる」と言う「希望」です。
 これから僕は、あってもいい、なくてもいいような人生を迎えます。無から生まれ無に帰っていく。いったい何だったのだろうと思ってしまいます。
貴女とお母さまのより良い日々を祈っています。
 
ヤマト薬局

 

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