単語

知らぬこととはいえごめんなさいね。
昨夜のブログを書くときに、本来使っていた単語を一つ抜きました。例のアホコミと言う言葉です。
いまさら隠しても仕方ないですが。
でも驚きましたね。お二人ともマスコミ関係とは。
僕がマスコミを嫌いになったのは、「I AM NOT ABE」と番組途中に意思表示して、当時イスラム国に捕まった〇〇さんを守ろうとした勇気に反して、局のえらいさんが汚部に忖度して古賀茂明さんを降ろした時からです。あの時を境に、この国の政治が変わってしまいました。マスコミは単なる企業と言うのは分かっていましたが、悪に加担していいはずはありません。金持ちや権力者のために、庶民が金を巻き上げられ、命を捨てることを強いられる、そんな時代が復活したのです。都会の金持ち老人のために、田舎の若者が死んだ、かつての戦争と同じ構図が脈々と生きているのです。僕は非力ながらそれに抗いたいです。体調を崩した人を前にして、判断がその人の背景に引きずられてはいけません。なるべく平等であるべきだと日常業務でも工夫してきました。政治にもそれを求めています。
朝から晩まで白痴的な番組を流しているのは、単に能力がないばかりでなく、壮大な国民白痴化の企ての一環ではないかと思ったりします。
僕がまだ幼いころ、台風の夜、おむすび一つの夕食に不満を訴えた時に母が諭した言葉「おにぎりも食べれない人が世の中にはいる」60年以上も前の教えをいまだ守っているのです。


菅総理と玉川徹氏 どっちが正しい? 「国民はそれほど馬鹿なのか」 古賀茂明
 6月9日に2年ぶりに行われた党首討論。弁論能力では野党第一党立憲民主党枝野幸男代表が菅義偉総理よりはるかに上だ。しかし、最大の論点、コロナ対策については、菅氏が、「ワクチン、ワクチン」と叫ぶだけで、全くかみ合わない。五輪も補正予算も時間不足で、実のある論戦ができずに時間切れ。枝野氏圧勝を予想した向きには肩透かしの結果だった。この結果に菅氏はほっと胸をなでおろしていることだろう。いや、むしろ、計算通りだとほくそ笑んでいるかもしれない。
これまで菅総理は、国会でも記者会見でも、質問にまともに答えることができず、それが支持率にも響いてきた。最近では、これが日常化して、どんなにふざけた答弁でも、ニュースとしての価値がなくなるほどにまでなった。菅氏から見れば、今回の党首討論の結果は、それに比べればずっとまし。秋の自民党総裁選に向けて良いスタートになったと思っているのではないか。
こうした菅総理の自信の裏には、二つの要因がある。一つは、皆さんご承知の「俺にはワクチンがある」という確信だ。この点は、6月4日号の本コラム「五輪をめぐる菅首相のプランAとB」にも書いたとおりだ。夏の間は、コロナで人がたくさん死ぬかもしれないが、気にしなくて良い。五輪でお祭り気分となり、さらには、GoToも一部地域限定で開始を宣言すれば、雰囲気は一気に変わる。9月までにはワクチン接種の拡大で死者や重症者が減り、高齢者を中心に安心感が一気に広まる、という「思い込み」が菅氏を支えている。
9月の自民党総裁選での再選が最重要課題の菅総理にとって、できればその直前に衆議院解散総選挙を行い、そこでまあまあの結果を出して無投票再選に持ち込みたい。したがって、ワクチンの効果は、9月までに出ればなんとかなると考えているのだ。
しかし、仮にワクチンの接種が順調に進んで、9月に感染が多少落ち着いても、国民がそれまでのコロナ対策の拙さを許してくれるだろうか。ことは自分たちの命や暮らしに関わることである。
この点について、テレビ朝日コメンテーターの玉川徹氏は、「日本人ってそんなもんですかね。もうオリンピックの2週間ですっかり忘れて、あー良かったねって言って投票するんだろうか」と述べている。国民はそんなにバカではないと言いたかったのだろう。
逆に言えば、菅総理は、玉川氏とは逆のことを考えているということだ。菅総理の余裕の裏にあるもう一つの要因。それが、菅氏が安倍前総理から引き継いだ哲学である。
私は、今から7年前の2014年7月18日にこうツイートした――安倍さんの政治哲学:「国民は馬鹿である」 1.ものすごく怒っていても、時間が経てば忘れる  2.他にテーマを与えれば、気がそれる  3.嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう  私たちは、そんなに馬鹿なのでしょうか?―― 
安倍政権では、とんでもないスキャンダルや失政で内閣支持率が落ちてもすぐに回復し、不利だと言われた選挙でも必ず自民党が大勝した。国民は今もそれほど馬鹿なのか。それとも、こうした経験を経て、覚醒したのだろうか。玉川氏と菅総理、どちらが正しいのか。秋にはその答えが出る。