仕草

 息子がくれた、キャンプ用のバーベキューセットは、使った後の手入れが大変なことと、火力が意外と弱いことが欠点だ。僕の使い方が悪いのか、もともとその程度なのか尋ねてみると、彼もまた、古代人よろしく、筒で息を吹きかけ、火力を挽回させながらの調理らしい。
 そこで僕は考えた。いっそのこと利用するのは金網だけで、地面にレンガを積み、その中で炭を燃やせばいいのではないかと。煉瓦はいっぱい余っているし、土地は広いから安全だ。
 ベトナム人たちは、薬局の前のミニ庭園でやりたがったが、僕が制止して、寮の庭でやることにした。僕が金網と一斗缶に入った殻付きの牡蠣、それと炭だけを持って行ったから、すぐに察して自分たちでレンガを組み立てた。
 効果はすぐに現れた。火力が弱いなら、何を燃やしてもいいではないかと言うことで、荒れた庭にいっぱい枯草や枯れ木があるので、それを集めてきて次から次に燃やした。
 枯れ木を拾ってきては、器用に折り、まるで昔のかまどのようにして、次から次へとくべると、牡蠣殻もまた次から次へと口を開いた。前回牡蠣殻が口を開けるのを今か今かと待っていたのとは違い、10人でも食べるのが追い付かないくらいだった。
 普段は、日本人と同じように見えても、こうした時に身に付けた仕草は輝く。一気に冷たい冬の空気が郷愁を帯びる。僕が幼い時に母の里に預けられて見続けた光景なのだ。
 コロナで厳しい外出規制がかかっているベトナム人達に、せめてもの気分転換と思い早朝備前市の魚市場に買いに行ったのだが、その甲斐は十分にある。彼女達の連発する「ゴン=美味しい」と、それにもまして母や、戦争未亡人だった叔母、そして愛する祖父母達が景色の中に蘇ってくれたこと。
 いつ何がキャンパスになってくれるかは分からない。