「そりゃあ、みんな断るわ」と妻は僕を馬鹿にするように言ったが、僕は断らない。断る理由に時間、体力、悪意、危険以外はない。一瞬その日のやらなければならないことを考えて、30秒くらい時間をもらったが、いつものように快諾した。
 僕は何でもすぐ引き受けてから悩む。どうしたら満足してもらえるかを。引き受けたことを後悔することは実際にはあまりない。実力不足で不安になることもあるが、乗り越えるための努力をする。僕の人生はこのようなものだ。
 再来週の日曜日、教会でベトナム人同士の結婚式がある。花嫁のお父さん役がいないそうで、何人にも断られた挙句偶然その日ミサに参列した僕を見つけた方が、僕に頼んできた。何をしていいのか分からなかったが、依頼してきた日本人の世話係の喜ぶ姿の方が僕には貴重だ。案の定快諾すると安堵の表情で顔がとても緩んだ。その時の表情の変化こそが、僕が断らない一番の理由だと思う。
 今まで100人では収まらないベトナム人達と接してきたが、彼女たちの僕に対する評価は「優しい」だ。ただその理由を彼女たちなりに見つけていて「医者さんだから優しい」のだそうだ。僕は単なる薬剤師だが、かの国ではあまり区別がないのかみんな「医者さん」と勘違いする。医者さんだから優しいとは、ベトナムでは医者はそんな人格的な評価まで得ているのかと感心するが、かの国は資本主義ではなから医者の給料もとても低くアルバイトをするくらいだから、医師を志し、その職業を全うする姿が評価を得ているのかもしれない。
 僕は医者さんほど頭も肩書もないけれど、なぜか目の前にいる人の手助けになることは何でも「したがり」ではある。漢方薬を勉強し始めたのも、牛窓に帰って病院では治してもらえない人を沢山薬局で見たからだ。若くて無能な僕に助けを求めてくる人が多かったからだ。縁あってその道をぶれずに続けてきたおかげで、少しは人様のお役に立てれるようになった。そのおかげを、人様に返さない手はない。たとえ彼女たちの言う「優しいが」単なる僕の職業的な長年の「癖」であっても。