評価

 自信を持って否定できることがある。僕に対する評価で「優しい」と言う言葉を使われることに対してだ。全く適していないことは僕の心の中を覗けば簡単に分かる。いやいや心の中を覗いたりしなくても、優しい人を見抜く簡単な方法はある。顔の表情だ。本当に優しい人は、見るからに優しい表情をしていて、笑顔が絶えない。僕など平生は厳しい顔をしているし、紛らわしいが笑顔ではなく笑いが絶えないだけだ。人の心と体を弛緩させるのに笑いが効果的なことを体験的に知っているから、応用しているだけで、笑顔が絶えない人間ではない。笑顔と笑いは似て非なるものだ。  人が僕にそのような評価を間違ってしてくれる大きな理由は、僕の職業によるのだと思う。僕だけでなく、他の薬剤師は勿論、お医者さんなどその際たる者だけれど、体調不良を抱えている人の問題を解決する方法を懸命に探る習性がそのように映るのだと思う。優しいのではない、反射的に問題を解決しようと身構えるのだ。単なる癖といっていい。僕など既に40年近くその作業を休むことなく続けてきたのだから、反射にも磨きがかかっているのだろう。だから照れくさいような、いや後ろめたいような評価を頂くのだ。  特にかの国の青年達から言われる頻度が高いが、かの国の人たちが、体調だけでなく異国で暮らすハンディーや不便や不都合を口にしたとたん、スタートする僕のおせっかいが、そう言わしめているのだろう。  そんな僕に適しているのは「やさしい」ではなく「やましい」だ。