空元気

 母は目を開けていて、手を振る僕を見つけて笑顔で迎えてくれた。前回の小一時間に及ぶ瞼を閉じた状態は何だったのだろう。後で皆で想像したように、単にまどろんでいただけだったのだろうか。何はともあれ回復?していたことにまず安堵した。と言うより今日はかなり調子がよくて、雨が上がったのをチャンスとばかりに外に連れ出すと、すぐさま寒いと言ったし、すれ違う人全員に挨拶もした。ただ昼の1時ごろだったのに「こんばんわ」を多用したのは残念だが、それでも笑顔を振りまいていたのは傍に居て嬉しい。又これは毎回不思議なのだが、看板や案内板の漢字を見つけるとすぐに口に出して読む。そしてそれがかなり難解なものでも間違えなく読む。言葉を正確に文章に組み立てるのが困難なのに、漢字はパーフェクトだ。昔の人は特に漢字には強いが、その部分が全く衰えていないことが不思議だ。  今日は僕もゆっくりと母の傍に居るべく小道具を持参していた。しばしばフェリーや新幹線で使う手だが、日ごろたまっている薬の情報誌を持っていってて、1ページでも多く読もうと計画していた。案の定、母も調子が良くグランドの散歩が嬉しそうだし、子供たちの野球の練習もなかったので、二人だけで広いグランドを独占した。雨にぬれた山々の緑は濃く、鳥の声くらいしか音はせず、眼下に母が幼少の頃を過ごした村が横たわる。  息子が母を近くの特別養護老人フォームに入れる算段をしようかと最近提案してくれたが、正直迷っている。車で10分くらいのところだから、家にしばしば連れて帰ってあげることが出来るが、今居る施設に比べたら環境が圧倒的に劣る。現在のところは田舎にある施設でスタッフもとても親切にしてくれたから、その人たちと縁を切るのも心苦しい。本人の意向と言うものが無い状態で物事を判断しなければならないのはとても難しい。想像力も経験に裏打ちされなかったら危なっかしい。戦争体験の無い政治屋どもの空元気が危なっかしいのも同じ理由だろう。