先入観

 ハンドルにサドルにペダルにチェーンにタイヤにフレームに、もうそれ以上自転車の部品の名前を知らない。だからうまく伝えられるか不安だけれど、教訓に富んだ珍事件だったので取り上げる。  5月から市民病院の処方箋を調剤することになったので、それも病院が遠い為、患者さんの家まで配達するケースが増えるだろう為に、自転車の出番が増えると予想している。ところが我が家の組み立て式の自転車がこの一月くらい前から、急に乗れなくなった。ペダルに足をかけて体重を乗せても全く動かないのだ。いずれ自転車屋さんに持っていって修理をしてもらわなければならないと思っていた。今日歯医者さんに行くついでに、近くの自転車屋さんに持って行ってみようとやっと決心して、車に乗せようとしていた。そこへ偶然やって来たある問屋のセールスの方が、自転車を抱えて歩いている僕を見て「どうされたんですか?」と尋ねてくれた。ことの顛末を話して「自転車に詳しいの?」と聞くと全くそうではないらしい。しかし彼は勇敢にも問題を解決してくれようとしげしげと自転車を眺め始めた。そしておもむろに「ブレーキがかかっていますね」と言いながら、ハンドルを持って前のタイヤを水平方向に一回転させた。そして足をペダルにかけると、自転車が一月振りに動き出した。僕は自転車がいとも簡単に動き出したことに驚いたが、もっと驚いたのは(ここからが難しい)前タイヤがまるでサーカスの自転車のようにハンドルもろとも水平方向に自由に回転したことだった。僕の今までの人生でまさか普通の自転車のタイヤが、アクロバット宜しくクルクル右にも左にも回るとは思わなかった。普通の自転車ならしっかりとフレームに固定されているから、ある角度以外には首を振れないものと思いこんでいた。その思い込みを彼は簡単に打ち破った。元々組み立て式の自転車の構造を知っていたのか、思いついたのか知らないが、一回転元に戻してくれたおかげで、ブレーキがしっかりとかかった状態を解除してくれた。ブレーキのワイヤーが自転車に巻き付いて、まるで人間の手がブレーキをかけたのと同じ状態になっていたのだ。 余りにも簡単に治ってしまったので、ただハンドルもろとも回転させ、ワイアの緊張をとっただけで治ってしまったので、僕の無知振りが際だった。それにもまして、決してある角度以上はハンドルを切れないと言う勝手な思い込みが情けなかった。もしあの時彼に会っていなければ僕は自転車屋さんに行って、とんでもない迷惑をかけるところだった。ハンドルを360度切れる自転車があるってことを今日初めて知った。そして何よりも、先入観というものの不自由さも大いに知らされた。