獅子舞

 5分?10分?年に一度の至福の時間だ。僕一人わざわざ薬局から出て、かぶりつきで見させてもらう。日焼けした7.8人が笛を吹き、鐘を鳴らし、二匹の獅子が踊ってくれる。何十年同じメロディーで、同じ振り付けで、たったそれだけのことなのだが、僕にとっては「たった」ではない。 理屈は抜きだ。到底説明出来そうにない。幼いときに恐らく最大のイベントだった、そんな原点回帰でもなさそうだ。好きだから好き、最近はこの様に説明している。それ以上適した言葉が見つけられないのだ。   伊勢神宮のお神楽のメンバーも徐々に入れ替わって、馴染みの人がかなり減った。でも毎年舞を踊ってくれる人はお互い顔を覚えていて、まるで久々にあった友人のように目で挨拶が出来る。真っ黒に日焼けした、そうまるで漁師みたいな彼らに、信仰の香りがするかと言えば・・・僕はするのだ。彼らを派遣している伊勢神宮を訪ねたことがないから知らないが、炎天下、汗を拭きながら笛を吹き、鐘を叩き、獅子を操る人の向こうに、神の力を感じる。ただそれは神の直接的な力ではない。日本中を廻る神楽の一行の一人一人の力だ。何十年毎日毎日笛を吹き舞い続けた人の力だ。ただの一言も言葉を発せずに踊りで伝えるから偽りがない。  僕は今言葉から逃げたがっている。大は世界、国。小は小さなサークルまで、言葉をうまく操る、勿論それは見え透いているのだが、輩の異常増殖にうんざりしているから。悪意に満ちた名せりふにうんざりしているのだ。もくもくと家々を廻る保存会の人達の、日焼けで深く刻まれた皺より雄弁に語るべきではない。