退路

 綺麗な日本語を話すし、物腰もとても柔らかく謙遜で非のうちどころがない。漢方薬を作ってカルテを書き留めるために名前を尋ねたら、やたら長い名前を言われた。わかる部分はあるのだが、途中に何かややこしい名前が入ってくる。言ってもだめと思ったのか名刺をくれた。それには日本語のありふれた名字と名前の間にカタカナで長い名前が入っていた。なんじゃこりゃと思って尋ねると、ブラジルの人で2世だった。2世といっても全部日本人の血だから日本人的な顔をしているが、色黒で彫りが深いからどことなく混血のようにも見える。だけど純血らしい。  本来余り立ち入ったことは尋ねない主義なのだが、漢方薬をとても信頼してくれて数回通ってきている間に好感を持っていたのでちょっとだけ尋ねてみた。「それではラテン語はペラペラなの?」と。すると「ラテン語ではなく、ポルトガル語ですけれど、母国語だから当然出来ます」と答えた。メチャクチャ違和感はあるが当たり前と言えば当たり前だ。今喋っている日本語こそが彼にとっては外国語なのだ。もう日本に来て20年近くになるから日本語もそれこそペラペラなのだ。最初日本に来たときは、頭の中で日本語を文法的に構築してから喋っていたらしいが、今ではポルトガル語で同じ作業をしていると言っていた。日本語オンリーの僕にはわからないが「言語はそれぞれの回路があるんです」と言った言葉が印象的だった。僕には回路と言えば、貼って使うか、もんで使うかの2つの回路しかないので。 又面白かったのは、単純だがどちらの国がいいかと言う僕の問いに対する答えだった。結論はどちらも良くて比べられるものでは無いというものだったが、彼が長所としてあげたのは、やはり日本の治安の良さだ。車に鍵をかけずに離れられるとか、鞄を抱きかかえて歩かなくても良いとか、考えられないような当たり前のことが当たり前でない差だった。またブラジルのよさはと言えばサーッカーやカーニバルを上げた。経済的な差が未だかなりあるから、そのあたりを比較することはしなかった。意外にも天候の過ごし安さっもブラジルの方が優るといっていた。あれだけ皆黒いから熱くて困るだろうと思ったら、意外や意外湿度が低いからさわやかなのだそうだ。 化学薬品に不信感を持って漢方薬を好んで取りに来るくらいだから、福島の放射能についても強い関心を持っていた。やはり家族は帰ってこいと言うらしい。逃げるところがあるのは羨ましいと思った。僕はベトナムに逃げようと思うと言うと、あそこは米軍が枯れ葉剤を一杯撒いているからだめだと言った。さすがに筋金入りの自然派志向は違う。  退路を塞いで潔癖を貫くのは日本人の美徳だが、こと見えない敵には退路だらけにしておきたい。みんなで逃げまくれば恐くない。