ご褒美

 突然「足を洗ってもらいませんか?」と電話がかかってきたので、もうとっくに御法度の裏街道から足は洗っているのにと思いながらその意味を教えてもらった。ほとんど素人クリスチャンの僕だから、今日から3日間がキリストの復活に関してとても大切な日だってことは知らなかった。今日はキリストが十字架につけられる前に弟子達の足を洗った日なのだそうだ。それにちなんで神父様が信者の足を洗うという儀式があり、キリストの弟子にちなんで12人集めなければならないと言うことだった。平日の7時から行われるミサの中での儀式だから、牛窓を6時には出なければならない。いったん断りかけたのだがすぐに思い直して参加させてもらうことにした。岡山教会は恐らく信者の数がとても多くて3桁になるのではないかと思うが、そのなかで、岡山教会に属していない僕に声をかけてくれたことが有り難かったのだ。恐らく最近傷心気味、と言うより横浜のある女性に言わせれば噴火状態らしいが、の僕をキリスト教から離れないように願ってくれた人の意図なのだ。長崎弁丸出しで、いつまでたっても訛りが抜けず、その信仰の厚さは誰もが認めながら、それでも不器用に一所懸命世話をしている人の配慮だった。 足を本当にごしごし洗ってくれるのかと思ったらただ水をかけてくれただけだった。こんな形式だけなら、緊張してブレザーを着て来る必要はなかったと後悔したが、それ以外はやはり参加して良かったと思った。岡山教会には金色の大きなキリストの像が飾られていて、嘗て数えられないくらいの回数僕はその前にひざまづいて、子供達のことを祈った。何年も何年も通い続け、見よう見まねでひざまづいて十字を切り祈り続けたものだ。その大きな十字架の上のキリストを見上げながら、今日も又沢山の祈りをしてきた。いや素人信者だから祈りと言うよりお願いかもしれないけれど、それでも僕は良いと思っている。祈らなければ、誰かにお願いしなければ抱えきれないほどの困難に押しつぶされてしまう。一人で頑張るほど僕は強くはない。何かに、誰かにすがりながらやっと生きていくのが精一杯だ。久し振りに教会で涙が溢れてきた。嘗てはこうして直接いと高き方と話をしていたように思う。  せっかくの好意に報いることが出来たが、僕のほんの小さな決断に神様がそれこそご褒美をくれた。嘗て毎週温かくて柔らかい手に触れることが楽しみだったある人が家族と一緒にお祈りをしていた。もう1年くらいは会わないのだろうか、歩み寄ると家族の方がとても嬉しそうにしてくれて、再び当時と同じ柔らかくて温かい手と握手をすることが出来た。僕の少ない体験の中で最も教会が似合う家族だった。どんな言葉も太刀打ちできない家族愛をいつも見せて頂いていた。  僕の心の中で時計の針がずいぶんと巻き戻されたような気がする。希望も勿論あったが、不安の方がいつも優っていた。勇気や無謀だけでは乗り越えられない津波は人生では繰り返される。