3連休

 思えばこの3連休中、とても良い人達に出会えた。予期せぬ人達ばかりだが考えてみればそれだけ多く外出していたことになる。そして全く仕事をしなかったことも珍しい。と言うより初めてかもしれない。記憶を辿りながら経時的に書く。3日間ともかの国の女性達と行動を共にしたから、しばしば登場するかもしれないが、ご容赦願いたい。明日からはいつもの薬局の光景について書けると思う。  シスターと言うのは一生をキリストに捧げると言う職業?なので見かけどおり堅苦しいものと思っていたが、元旦に会ったシスターは僕の先入観を完全にうち消した。生身の人間で、キリストに全てを捧げるという一点以外は僕などと何ら変わらないのだと思った。ただちょっと上品と下品の差はあるが、こと世の中の見方などはすこぶる似ていると思った。福島で働いているらしいが、マスコミなどで隠し続けられていることを誇張無く教えてくれた。決して高尚ぶる事なく素直な表現だった。謙遜を本当に身につけているからわざとらしさが全くなく、こちらの緊張感を自然にとってくれた。調子に乗って僕は年上のおじさんとして彼女に自分の身の安全も守ってねとお願いしたし、献身もいいけれど、放射性物質をまき散らした犯罪者が今でものさばっている状態を決して容認することもないようにともお願いした。教会でこのテーマで話し合えた最初の人になった。  このシスターを、彼女が幼い頃から知っているという夫婦と寒空の下で色々話をしているときにシスターがご両親と一緒に帰って行った。まるでその頃の関係のまま話しかけるその夫婦やシスターのご両親やいつも顔が笑っている老人、いわゆる長崎県から移り住んだ人達のりきみのない教会との接し方に救われた一日だった。  目的地までに4回も乗り換えをしなければならなかったので、正直かなり負担だったのだが、加古川辺りで乗り込んできた若いお母さんに手招きして席を譲った。ベビーカーで赤ちゃんを、そして手つなぎで幼い子供を連れていたので、ごくごく当たり前の行為なのだが、当のお母さんが本当に気持ちの良いお辞儀をしてくれた。その光景を見ていたかの国の女性達も席を立って、他の親子連れに席を譲った。すると又その女性もとても気持ちの良い笑顔で礼を言ってくれた。そして僕達が降りるときには顔を見合わせお互い会釈をして別れた。  「次は須磨」などとアナウンスされれば、須磨水族館の最寄りの駅だと県外の人間だったら思うだろう。当然僕もやっと着いたかという安堵の気持ちで電車を降りた。かの国の女性がトイレに行っている間に、改札を出てから左右どちらに行けばいいですかと駅員さんに尋ねた。すると最寄り駅は「須磨海浜公園駅」だと教えてくれた。歩いてもいいが30分くらいかかりますよと言いながら、観光地図をくれた。おかげですぐ次の電車に飛び乗り遅れをとることなく、スケジュールどおり行動できた。同じように元町駅でも駅員さんにその界隈の地図を頂いた。  「オタク本当に神戸の人?」と皮肉ではないが尋ねてみたくなった。実際地元の人だったのだが大都会ともなればやはり全てを把握するのは難しいのだろう。決して穴場的なところを尋ねているのではないが、懸命に携帯電話を操作してくれる割には、なかなか結果が出てこない。じれったいのをこらえて寒い店の外で彼の親切に付き合ったが、結局アクセサリーを物色していたかの国の子らが出てきてしまったのでねぎらいの言葉を残して去った。  いつもの僕なら退散間違いないのだが、折角有名なエリアに案内しているのだから、ここで中国料理をあきらめる手はないと、人でごった返している通りをかき分けて、なんとか席がとれそうな店に入った。だがさすがに甘く、2回の席まで全て埋まっていた。ここを出ても同じことの繰り返しだと分かっていたので腰を据えて待とうと階段の踊り場にいたら、それを見つけた5人ずれの家族が、慌てて席を立ってくれた。そしてすれ違うときにお母さんらしき人が「どうぞ」と声をかけてくれた。中国語訛りのスタッフばかりだったから、そしてその家族の顔つきがそちらの方のように見えたから、その親切がとても嬉しかった。政治家同士が保身のために鋭利な言葉を使いたがるが、庶民レベルではそんなこと所詮どうでもいいのだ。  そんな親切を受けたから、僕らが食事をしているときに男女二人連れの同席を頼まれたが、気持ちよく同意した。先に食事を終えて席を立つと、二人が有難うございましたと礼を言ってくれた。まるで田舎の人と接しているときの光景が都会の人との間で再現できたので、当たり前の挨拶でさえ特別耳に心地よかった。こうした喜びに優るものはなかなか無いが、それが連続して起こったことに、そして一瞬心と心を通じ合わせられた人達に感謝。 極めつけは今日の出来事。かの国の人で神父になろうと勉強している男性と、かの国の女性二人と僕、勿論神父さんの5人で昼食を頂いた。勉強中の男性の手作りなのだが、料理は勿論、3時間もの間何ら修飾されない話が出来て良かった。わざとらしさが一切無い会話をひょっとしたら初めてその教会で出来たかもしれない。そのお陰なのかもしれないが、男性を岡山教会に送ったときに、つなぎの服を着て寒空の下一生懸命駐車場を掃除している人が目に付いた。僕が嘗て一番○○教会でお会いし続けたいと願っていた家族の方ではないかと気になった。教会に来られなくなって、そして僕も又行けなくなって以後お会いすることは出来なかったが、いつも気になっていた。マスクをしていたので顔は分からなかったが、僕は「今この時点で一人もくもくと駐車場を掃除している人」と言う事実だけできっと彼ではないかと思った。すると僕の視線に気がついてくれてマスクをはずしながら挨拶をしてくれた。少しだけ近況を話し合っただけだが、僕など足元にも及ばない善良を持ち合わせている人との再会に感謝した。 明日から又仕事が始まる。僕の気持ちはうきうきしている。少しでもお返しすること。その為なら何でもする。そうした高揚感をもたらしてくれた3日間だった。