佃煮

 もう随分前だと思うが、一人乗りの車が売り出されたことがある。と言うのは、以来余り普及したように見えなかったので、その持ち主である人に尋ねたら、収益がでるほど売れなくて会社が撤退したらしい。初めてその車で買い物に来たときに、わざわざ駐車場に出ていって車の中を覗かせてもらった記憶がある。持ち主は、牛窓の山の上に住んでいて、途中かなり細い道を通らなければならないから便利だろうことは察しが簡単に付く。どのくらい普及するのかと思っていたら、彼以外見ることはなかった。 彼はそれでも十分お気に入りで、あの小さな車で岡山市の繁華街まで出ていくのだそうだ。「あの車はええで(いいよ)一方通行の道を走っても誰も文句を言わんし(言わないし)知らん顔(知らない顔)をしとる」と自慢げに言う。「それは違うだろう、顔を見てその筋の人と間違えて恐くて何も言えないんだよ」と僕は印象のまま言った。誰が見ても恐ろしくて近づけない顔の構造をしている。それを知ってか知らないでか、丸坊主だし髭を生やしているから、間違ってくれと言わんばかりだ。ものの言い方も偉そうだし、寧ろどこから見ても堅気には見えないと言った方が当たっているかもしれない。 その彼が買い物に来たのは、佃煮に使う防腐剤。奥さんが料理が得意で色々な素材で佃煮を作ってくれるそうなのだが、早く食べないといたんでしまうので何処かで聞いたことがあると言う防腐剤を買いに来たのだ。風貌には似合わない細かいところがある。偉そうな物言いは、そうした無意識のハンディーを隠す為に身につけてきた処世術かもしれない。買い物が済んで他の人が入ってきているのに、なかなか帰ろうとしない。レジの邪魔になるからか、備え付けている体重計に乗っていた。「この体重計、壊れとるで(壊れているよ)」と、2,3回、乗ったり降りたりしていた。毎日誰かが量っているから、壊れているようには思えなかったが、大の大人が言うことだし、古いものだからそれもありかと、僕が試しに乗ってみるといつもの所で目盛りは止まった。「壊れてなんかないじゃない、もう一度乗ってみて」と促すと、当然目盛りは動いた。ただ、指す目盛りが、まさに誰も乗らない時と同じ所なのだ。「おじさん、丁度100kgなんじゃないの」と言うと、「そうか、1回転しとったんか」と納得した。お腹が出すぎて目盛りが動く間足元を見られないのだ。 人騒がせなものだが、以前ある漁師が孫を抱いたまま体重計に上がり「わしゃあ(私は)ものすげえ(ものすごく)太った」と驚いていたのに、優るとも劣らない。田舎の薬局ならではのこんな光景が僕の薬局でも減ってきたのかもしれない。