運動靴

 今日、玉野教会のミサでキム神父様に教えて頂いたエピソードなのだが、連休中の浮ついた心を一瞬のうちに見破られた感じがした。 インドの偉大な指導者ガンジーがある時列車に乗り込むときに、片一方の靴を線路に落としたそうだ。拾いに降りる時間もなかったその時にガンジーが取った行動は、なんともう一方の靴も線路に落としたのだそうだ。それはその靴を拾った貧しい人が利用できるようにと言う配慮からだ。一瞬の行動だからとってつけた行動ではなく身に付いている行動なのだ。口では大きな事、きれい事はいくらでも言えるが、人は一瞬のうちに、それも自分にとって不都合なときに小さい人間性が露呈してしまう事はしばしばある。 この連休は、珍しく僕はやるべき事を控えている。いつも何項目も列挙して一つずつ消していくことを喜びにしていたのだが、今回はその項目を圧倒的に減した。誰にもおおむねあることだが、僕は自分をかなり追い込まないと何も出来ないタイプなので、無理を承知で計画を作る。無計画よりは少しは着地点が遠くになるくらいの効果しかないのだが、半歩でも砂場に付ける靴の跡が遠くなれば喜びにしていた。  ところがその僕の小さなやる気さえも、実は自分の欲望から発した行為なのだ。本当に相手のことを考えて、相手の方が求めていることを実現するように考えることが大切だと説教の中で諭された。30年間の薬剤師の仕事の中で、特に漢方を勉強してからは、薬を飲んでくれる人の苦痛からの解放をひたすら求めてきたが、ひょっとしたらそれは僕のプライドのためだったのかもしれない。結果的にはかなり神経質に効果に拘ってきたが、純粋な発想だったと断言できるかどうか。特に自分が健康だった若いときには苦痛を共有する心はなかった。今でこそかなりの不都合を抱えてきたから共有できるものは多いが、それでも尚体験しなかったトラブルには心を寄せることが難しい。全ての方と痛みを共有するほど凡人には余力はないが、せめて拾ってもらう運動靴くらいは洗っておこう。もう10年以上洗ってはいないはずだから。