この人にこの1行を削る権利も人生の裏付けもあるのだろうかと思いながら、それでも僕は快諾した。勿論僕がその1行に込めた思いは強いのだけれど、その1行に拘るその人自身も又、その1行を本当は投げかけて上げたい人のように思えたから。 年齢を重ねるに従っていいことも沢山ある。例えばその場面で嘗ての僕ならかなりの反撃に出るだろう。ところが嘗てでは考えられないほどの寛容が備わりつつあり、一呼吸も二呼吸もおいておおらかな解決策を探ることが出来るようになった。禅問答ではないが、相手に不利であればあるほど、ハッキリ答えを出さないことも覚えた。ただ唯一絶対僕が今だ譲れないのは、強者の論理だ。この習性はいくら年齢を重ねてもなくならない。これさえなくなれば頭を打つこともなく敵を作ることもなく無難に日常を送れると思うのだが、残念ながらその兆しは今だ見えない。とにかくどんな組織や集団の中にもいる強い人には刃向かいたくなる。例えその集団に属さなくても不快感は容赦なく襲ってくる。別にそう言った教育を受けたわけでもないから本能的なものかもしれないが、本能に近ければ近いほどその習性からは逃れられない。そのせいで多くの成功のきっかけを失ったかもしれないが、逆にそのおかげでいつも自由だし、多くのごく普通の善人と楽しく接することが出来る。 男はそれこそ本能に戦うように刷り込まれているからか、どうもどこにいても戦いたがる。もう生命力もかなり使い果たした世代でもつい頑張ってしまいがちだ。現役時代の習性か夢よ再びかは分からないが、階級や肩書きに固執する傾向がある。外見だけならまだしも、効率や能率、果ては生産性まで何処にいても求めてしまう。そうして人生のほとんどを過ごしてきたからだろうが、そうしたものをいっさい排除した空間こそが本来あるべき姿ってことが理解できない。人間愛や友情、多少の犠牲、同情、奉仕、どれも単位を持っていない人間の営みだ。重さも速さも長さも、どんな数字も寄せ付けない世界こそ人々が回帰する場所だ。 桜が咲き始めたよと多くの人が教えてくれた。それで誰かの生活の質が向上するわけではない。会話の中に数字が飛び交うこともない。ただ、その一言で記憶にある風景が脳裏に呼び起こされる。それぞれが好きな場所の桜を思い浮かべる。温かい日差しを思い、温かい風を思い、そこに集う温かい人達のことを思う。一見不見識に思えるかもしれない1行に込めた意味は、桜色にも負けない僕の患者さん達への不器用な愛情表現だったのだが。